旅立ちまでの三日間②
そして、三日目の午後。
最後の訓練は、前日までとは少し趣向を変えた形で行われた。
「午後は私じゃなくて、ルシエラを相手にしなさい」
「えっ……ルシエラ様、ですか?」
メイベルが大きな目をさらに大きく見開く。
ユウナは庭の端へと歩いていき、木陰に置かれた椅子へどっかりと腰を下ろした。
「私とやると、どうしても“先生の動きに合わせる癖”が抜けないでしょ」
「……はい」
「だから今日は、ルシエラを相手にして、自分の頭で考えて自分で仕掛けなさい」
促されるまま、ルシエラが静かに木剣を構えた。
「手加減はしませんよ、メイベル」
「はいっ!」
最初の一撃は、メイベルが必死の思いで受け止めた。
二撃目は、重心をずらして綺麗に逸らす。
三撃目は、後退するのではなく、あえて一歩踏み込んで距離を潰す。
そして――四撃目。
メイベルはただの防御ではなく、自ら踏み込んだ。
ガツン、と乾いた木と木のぶつかり合う音が響き渡る。
「……っ!」
ルシエラ目を見張る鋭い動作。
腕の力では到底かなわない。それは分かっている。
だからこそ、受け流した勢いのまま身体を巧みに回転させ、もう一度踏み込んだ。
鋭く突き出された木剣の先が、ルシエラの肩口へと迫る。
――だがその寸前で、ルシエラの剣がメイベルの剣先をピタリと止めた。
「そこまでです」
ルシエラが穏やかに微笑み、木剣を下ろす。
メイベルはその場で激しい息を吐き出しながら、自分の震える手と相手を見つめた。
「……いまのは素晴らしかったですよ」
ルシエラは嘘偽りのない賞賛を込めて頷く。
「本当ですか?」
「ええ。かなり本気で止めました。一本取られて、私がユウナに怒られるところでしたよ」
メイベルが息を弾ませながら振り返ると、木陰の椅子に座っていたユウナが、じっとこちらを見据えていた。
「……悪くないわ」
ただそれだけの短い一言。
けれど、今のメイベルにとっては、どんな美辞麗句よりも胸に響く言葉だった。
「ありがとうございますっ!」
弾むような声に、ユウナはフッと小さく息を漏らした。
「その感覚を絶対に忘れないように」
「はいっ!」
―――
その日の夕方。
訓練着のままのメイベルは、庭の隅のベンチに腰掛け、移りゆく空を眺めていた。
隣にはルシエラが静かに寄り添い、少し離れたテラスでは、ユウナとエリスが明日の準備について話し合っている。
茜色の夕陽が、庭の木々と草花を朱く染め上げていた。
「……三日間って、本当に短いですね」
ぽつりと、メイベルがこぼす。
「そうですね」
「もっと、ここにいたい……そう思ってしまいます」
ルシエラはすぐに返事をせず、しばらく夕空のグラデーションを見つめていた。やがて、穏やかな声でこう告げる。
「なら、戻ってくればいいのですよ」
「……え?」
「王都で何が起きようと、どんな言葉を投げかけられようと関係ありません。
あなたが、自分の足でまたここへ帰ってくればいい」
メイベルは息を呑み、隣にいる女性を見つめた。
「ここは、もうあなたの帰る場所の一つなのですから」
胸の奥底が、じわりと熱く、痛いくらいに疼いた。
王城にいた頃、メイベルに与えられる居場所はすべて“最初から用意されていたもの”だった。
王女として生まれたから、この城にいる。
血の繋がった家族だから、同じ屋根の下にいる。
王家の人間だから、あてがわれた部屋を使う。
――だが、ここでは違った。
自分の意志で城を飛び出し、自分の足でこの屋敷の門をくぐり、そして自分の手でその滞在を勝ち取ったのだ。
だからこそ、この場所が愛おしくてたまらなかった。
「……はいっ」
メイベルは力強く、しっかりと頷いた。
「必ず、帰ってきます」
その誓いを聞き取ったかのように、テラスからユウナの気怠げな声が飛んでくる。
「その前に、王都で両親に説得されたりしないことね」
「はいっ!」
「あと、道中での実戦で無様な怪我をしたら、戻ってきたあとに倍の特別メニューを用意するから覚悟しなさい」
「はいっ!」
「それと、この三日で教えたことを忘れたりしたら――」
「はいっ、絶対に忘れません!」
あまりにも淀みなく、元気すぎる返事に、ユウナは思わず言葉を詰まらせ、それからフッと吹き出した。
「……本当に、この子は人の話をちゃんと聞いてるのかしらね」
『少なくとも、素直さにおいてはユウナ様を遠く置き去りにしていますね』
「エリス、今の発言はかなり聞き捨てならないんだけど」
『客観的な事実をお伝えしたまでです』
「……あんたね」
そのやり取りに、メイベルとルシエラは同時に声を上げて笑った。
夕暮れの庭に、三人の温かな笑い声が重なり合っていく。
やがて空の朱はゆっくりと深い夜へ溶け込み、屋敷の窓には一つ、また一つと優しい灯りがともされていった。
明日には、ここを発たなければならない。
この屋敷から出れば、待っているのは決して穏やかな事ばかりではない。
厳格な父との対話。
王家を取り巻くしがらみとの対立。
自分が一体何者で、本当に何を望んでいるのかを幾度も突きつけられる過酷な現実。
それでも――今のメイベルは、三日前の彼女ではなかった。
剣を握る手のひらには、新しくできた小さなマメと擦り傷がある。
全身には三日間の特訓による心地よい疲労感が沈殿している。
剣の技量が劇的に上がったわけではない。ほんの少し、半歩だけ前へ進んだにすぎない。
それでも、彼女は確かに何かを得ていた。
強さそのものではない。
強くなるための、心の持ちかたを教えてくれる人がいる。
転んだ時に、ただ同情するのではなく、立ち上がるための背中を押してくれる人がいる。
そして、ここを自分が帰るべき場所だと言ってくれる人がいる。
今のメイベルには、それがすべてだった。
―――
その夜。
夕食を終え、入浴を済ませたメイベルは、自分の部屋へ戻る前、リビングの入口でふと足を止めた。
「……おやすみなさいませ、ユウナ様。ルシエラ様。エリス様」
「おやすみ、メイベル。明日も早いんだから早く寝なさいよ」
「おやすみなさい、メイベル。身体を冷やしてはダメですよ」
『おやすみなさいませ、メイベル様。後ほどホットミルクをお持ちいたします』
三者三様の言葉が、メイベルの胸を満たす。
ほんの一瞬だけ迷ってから、メイベルは満面の笑みを浮かべた。
「……明日からも、よろしくお願いします!」
それは、もはや一国の王女としての挨拶ではなかった。
弟子として、一人の仲間として。
ここに帰る場所を持つ者としての、まっすぐな言葉だった。




