旅立ちまでの三日間①
王都へ向けて出発するのは、四日後と決まった。
召喚命令そのものはすでに下っている。
王家側が一刻も早くメイベルを帰還させたいと考えていることも、ユウナには分かっていた。
それでもユウナは、四日後という時間を譲らなかった。
旅の準備と称して稼げる、ギリギリの時間だった。
「丸三日あれば、最低限のことはできるわ」
そう言った時の彼女の顔には、王家への遠慮も、召喚命令への怯えもなかった。
ただ、これからの旅路へ向けて必要な時間を確保する。それだけだった。
そして、その三日間は、メイベルにとって想像していた以上に濃密なものとなった。
―――
翌朝。
まだ夜の名残をとどめる空が、青みを帯びた灰色に染まる頃には、すでに庭に乾いた木剣の音が響いていた。
一定の間隔で朝靄を震わせる、冷たくて鋭い音。
振り下ろす。
戻す。
踏み込む。
また振る。
ひたすら反復練習。メイベルの両腕はすでに鉛のように重く、肩で息をするたびに喉が焼けるように痛む。
「遅い」
「……はいっ!」
「返事はいいから、足」
「はいっ!」
「今の踏み込み、半歩深い。組み付かれるわよ。
身体が小さいあなたは間合いが命よ。相手の懐に入り込むのが一番大事、でも入り過ぎない。境界線を見極めなさい」
「――はいっ!」
ユウナの指摘には、容赦という言葉がなかった。
元気付け、やる気を出させるような褒め言葉もない。
だが、決して見放しているわけではないことだけは、肌で理解できていた。
間違えれば、容赦なく動作を止める。
できれば、さらに次の課題を突きつける。
そして何度失敗しても、もう一度、何度でもやらせる。
――それがメイベルには嬉しかった。
王城で受けてきた教育では、“失敗”とは極力避けるべきものだった。
教師の前で間違えれば、どこを間違えたのか教えられ、あらかじめ用意された正解をただ記憶する。
礼儀作法なら定められた動作を淀みなくできるまで繰り返す。
そこには常に、完成された答えが存在していた。
もちろんそれが悪いこととは言わないが、この剣の世界にはそれがない。
間合い一つ取っても、相手の体格、武器、敵味方の数、足場……状況によって、さっき覚えたことが全て通用しなくなることもある。
間違えて、転んで、痛みを知って、それでも立ち上がって、次はどうすればいいのかを自分の頭と身体で探す。
それをユウナは教えてくれていた。
「もう一回」
「――はい!」
重くなった腕を奮い立たせ、木剣を構える。
足を開く。
波打つ呼吸を無理やり整える。
そして、地面を蹴る。
振る。
――違う。
「今のは?」
「……腰が、浮きました」
「そう。じゃあ、もう一回」
「はいっ!」
草木を濡らしていた朝露がすっかり消える頃には、メイベルの訓練着は冬の寒さにもかかわらず、汗でずぶ濡れになっていた。
午前が終わっても、当然、訓練は終わらなかった。
昼食を挟み、短い休憩を取り、また木剣を握る。
夕暮れが庭を赤く染める頃には、メイベルは自分の腕が、脚が、自分のものではないような感覚に陥っていた。
―――
二日目には、木剣での稽古に魔法の行使が組み合わされた。
「あなたは神官なんだから、戦線の維持も最優先の仕事の内よ。
剣だけ振ってればいいわけじゃないわ」
ユウナが腕を組みながら告げる。
「実戦じゃ、剣を振っている最中に呪文を紡ぐ場面もある。
魔法を撃った直後に懐へ飛び込まれることもある。
相手が一人とは限らないし、望み通りに距離が開いてくれるとも限らないわ」
メイベルはぐっと唇を引き締め、深く頷いた。
「では、魔法を使いながら戦う訓練を?」
「そう。もっと正確に言えば、魔法の行使中に動きを止めない訓練よ」
それは、メイベルがこれまで刷り込まれてきた常識を、真っ向から否定するものでもあった。
神官として祈りを捧げ、奇跡を起こす。
そのためには心身を落ち着け、対象へ意識を集中させなければならない。それがこれまでの“正解”だった。
しかしユウナが求めているのは、その安全な枠組みを自らぶち壊すことだった。
「詠唱している間も、敵は待ってくれないわよ」
視界の端で、ユウナが軽い動作で木剣を放り投げた。
――ばすっ、と空気を切り裂いて、メイベルの足元へ木剣が突き刺さる。
「きゃっ……!」
慌てて半歩下がる。
「今の、実戦ならもう首が飛んでるわよ」
「……はいっ」
「もう一回」
今度は、木剣を構えたまま呪文の詠唱を始める。
意識が魔法の構築へ向いた、ほんのわずかな隙。
ユウナの木剣が、容赦なく迫る。
メイベルは息を呑み、身を翻した。
風圧が頬を撫で、木剣が訓練着の肩口をかすめる。
「――今のを忘れちゃダメよ」
その日、初めてユウナの口から明確な合格点が出された。
メイベルの瞳が、驚きで見開かれる。
「……ありがとうございます!」
「喜ぶのはここまで。満足して止まったらその先のレベルには上がれないわ」
「はいっ!」
数歩離れた所でそのやり取りを見守っていたルシエラが、ふっと柔らかく微笑んだ。
「すっかり、師弟らしくなりましたね」
「そう?」
ユウナは木剣を無造作に肩へと担ぐ。
「まだ全然よ。冒険者の門を叩く前の準備運動ってところね」
「ですが、最初の日よりは随分と、表情も動きも変わりました」
ルシエラは、汗まみれになりながらも懸命に呼吸を整えている少女に視線を注ぐ。
「……まあ、そうね」
ユウナも、厳しかった目をわずかに緩める。
「変わったわね、確かに」
その呟きには、隠しきれない確かな手応えと、微かな誇らしさが含まれていた。
―――
過酷な訓練が終われば、メイベルは屋敷の中で、つかの間の穏やかな時間を過ごした。
最初にここへ来た時の彼女は、何をするにも緊張でガチガチだった。
椅子に腰掛けるのも背筋をピンと伸ばして気を張り詰めさせ、周囲の気配にびくびくとしていた。
それが今では、少しずつ変化していた。
「エリス様、お水をいただけますか?」
『かしこまりました』
「ありがとうございます」
それだけで十分だった。
エリスも余計な言葉は返さず、いつも通りの淀みのない仕草で、冷たい水の入ったグラスを差し出す。
慣れてふてぶてしくなった、のではない。
礼儀を弁え、感謝を含ませた姿勢は崩さず、余分な力が抜けた……と言うべきか。
そのやり取りを眺めていたユウナが、ふっと口元を緩めた。
「すっかり馴染んできたじゃない」
「……そう、でしょうか?」
「ええ、いい顔をするようになったわ」
「なんだか……最初は、この広くて温かいお屋敷にいるだけで、自分が場違いなんじゃないかって緊張してしまって」
メイベルは照れくさそうにはにかみ、それから、ふっと視線を落とした。
「でも、今は……」
紡ぎ出す言葉を探すように、彼女はわずかに言葉を濁す。
「……なんだか、帰ってきたような気がするんです」
その言葉に、一同が注目する。
「す、すみません、こんな図々しいことを……」
ユウナが口を開きかけ、戸惑うようにまた閉じた。
その微細な反応を、見逃すことなくとらえて微笑みながら、ルシエラが口を開く。
「図々しくなんかないですよそれは、とても素敵なことです」
「まあ、そうね」
ユウナもまた、不器用に頷いた。
それ以上は、お互いに何も言わなかった。
その日の夕食の時、メイベルの皿にだけは、少しだけ多めに料理が盛られていた。
『成長期ですので、栄養はしっかり摂らなければなりません』
エリスは変わらない表情でそう説明する。
「そうね、そして疲労回復に甘味も大事よ。
そんなわけでエリス、ケーキをお願い。」
『そうですね、メイベル様には必要でしょう』
切り分けられたケーキの皿を、あくまでも澄ました顔でメイベルの前に置いた。
「……私のは?」
『……食事前につまみ食いしてましたよね?』
「……っ!? でも甘味はべ――」
『“別腹”ではありません。こんなぽんぽこになったお腹で言う言葉ではありません』
いつの間に間合いを詰めたのか、エリスはユウナのすぐ横に立ち、そのお腹をさすりながら言った。
「な……っ!?」
完全に虚を突かれたユウナが、驚きの声を上げる。
「凄い……!」
二人のやり取りの始終を見ていたメイベルは、エリスの、スカートを利用して隠した無駄のない足運びを捉えていた。
『メイベル様、ご覧になりましたか?』
「は……はい!」
『長いスカートは動きにくさもありますが、運足を隠し、相手の死角を突くのに役立ちます。
メイベル様の、ロングスカートをあしらった軽い革鎧を着ての戦いにお役立ていただければ幸いです』
「ありがとうございます!参考にさせていただきます!」
「あんたら……
ちょっと表出なさい。食後の運動をさせてあげる」
ぷるぷると震えながら、ユウナが声を絞り出した。
「……あ!は『お断りいたします。今外へ出ても、体を冷やすだけでメリットはございません』
“はい!”と、反射で返事を返そうとしたメイベルを遮って、エリスがさらりと言い放った。
「覚えてなさいよ、エリス……」
正論には何も返せない。ユウナは負け惜しみにしか聞こえないセリフをぶつけるのが精々だった。
『記録いたしました』
当然、意に介することなく一礼して答えるエリス。
そんなやり取りの横で、ルシエラがついに堪え切れずに声を上げて笑った。
「ユウナ、エリスには勝てませんよ」
「もう、何よ!味方しなさいよ!」
「味方してるでしょう? こうして止めてあげてるんですから」
そんな他愛のない会話の輪の中で、メイベルも声を立てて笑った。
そして、いつの間にかこの屋敷に響く自分の笑い声が、とても自然なものになっていることに気がついた。




