王女の決意
客室の一つが、メイベルのために解放されていた。
案内された部屋は、広すぎず、狭すぎなかった。
王城の自室のような華美な装飾はない。
だが、清潔な寝具と、手入れの行き届いた家具、必要なものが過不足なく揃えられた空間には、不思議なほどの居心地のよさがあった。
ベッドに横になると、今日一日の疲れがどっと押し寄せてきた。
「……ふぅ」
小さく息をつき、メイベルは天井を見つめる。
静かだった。
王城の自室も、夜には静寂に包まれる。
けれど、そちらの静けさとは決定的に質が違っていた。
王城の静寂には、いつも誰かの気配が薄い膜のように張りついている。
廊下に立つ護衛。
控えの間にいる侍女。
扉の向こうにある礼儀と規律。
メイベルが王女である限り、完全な孤独は許されない。
守られている。
大切にされている。
それは確かだった。
同時に、いつもどこか息苦しかった。
だがここは違う。
人が住まう温もりがある。
食卓の笑い声も、廊下を歩く足音も、屋敷を満たす灯りもある。
そして何より、不思議と落ち着いていた。
深く息が吸える場所だった。
メイベルは、体を預けているマットの上で少しだけ身じろぎする。
柔らかいが沈み込みすぎない。
身体を芯から支えてくれるような心地よさがある。
「……本当に、入れていただけたのですね……」
小さく呟いた声が、室内に溶けていった。
まだ信じられなかった。
あの門の前で、夜の冷気に身を晒しながら朝を待っていた時間。
足先の感覚はとうに薄れ、指はかじかみ、震えは止まらなかった。
それでも、帰るという選択肢は微塵も浮かばなかった。
ここで引けば、きっと一生、自分を許せなくなる。
そう、直感していたからだ。
ユウナは冷たかった。
厳しかった。
カフェで突きつけられた言葉の一つひとつが、鋭い刃となって胸に刺さった。
しかし、それを理不尽だとは思わなかった。
甘かったのだ、自分は。
何かを変えたいと言いながら、その変革に伴う血の滲むような重さを知らないまま、綺麗な言葉を並べていた。
現実を見ているつもりで、実際にはまだ、王城の厚い壁の内側から世界を眺めていただけだった。
「……それでも」
メイベルは、布団の上で拳を握りしめた。
「それでも、退くわけにはいきません」
昨日の広場での出来事を思い出す。
四人の男たちに囲まれた時、自分は確かに一歩も退かなかった。
だが、その内側では、恐怖に心臓が早鐘を打っていた。
足はすくみ、呼吸は浅くなり、今にも膝が崩れそうだった。
そこへ現れた、ユウナという存在。
彼女は、あまりにも自然にその場を支配した。
剥き出しの刃を突きつけられても、微塵も動揺しなかった。
巡回兵たちは敬礼し、人々は歓声を上げた。
彼女の名が呼ばれただけで、街の空気が変わった。
吟遊詩人の歌で聞いていたどの英雄譚よりも、それは生々しかった。
綺麗に飾られた伝説ではなく、目の前にある圧倒的な“現実”だった。
強さとは、ただ剣が速いことではない。
その場に立っただけで、空気を変えること。
理不尽を前にしても、己の芯を失わずに立ち続けること。
そして何より――あれほどの力を持ちながら、甘い言葉で他人を誤魔化さないこと。
メイベルは顔を上げ、部屋を見回した。
客室もまた、王城のそれとは対極にあった。
整っている。
けれど、堅苦しくない。
必要なものは揃っている。
けれど、見栄のための贅飾はない。
むしろ、使う者の動線を考えて配置されているのが分かる。
灯りも、湯も、家具も。
何もかもが不思議で、そして徹底的に実用的だった。
この屋敷そのものが、ユウナという人の在り方にどこか似ている。
余計な飾りは少ない。
だが、必要なものには惜しまない。
生きるため、守るため、帰るために作られた場所。
銀髪のメイド、エリス。
彼女もそうだ。
完璧な所作でありながら、王城の侍女たちとは決定的に何かが違う。
静かな佇まいの奥に、計り知れない深淵があるように感じられた。
ただの使用人ではない。
ユウナたちの家を支え、この場所を守る、もう一人の柱なのだろう。
そして、ルシエラ。
あの人は、きっと深い慈愛を持っている。
強く、まっすぐで、そして少し不器用だ。
門の向こうで、彼女が自分と同じように一晩中立っていてくれたと知った時、凍えていた胸の奥に、火を灯されたような気がした。
自分は試されていたのだ。
ユウナに。
そして、ルシエラやエリスにも。
だからこそ思う。
ここは本来、自分が安易にいていい場所ではない。
王女という身分。
国家との摩擦。
王家の意向。
神殿との関係。
自分は、それらすべてを背負ったまま、この屋敷へ厄介事として転がり込んだ。
受け入れてもらえたからといって、手放しで喜んでいい立場ではない。
「……ご迷惑をおかけしています」
誰にともなく零した言葉だった。
しかしその言葉と同時に、決意はさらに硬くなる。
「でも……それでも、ここで学びたいのです」
王城に戻れば、守られる。
何不自由なく、穏やかに振る舞っていれば、多くのものを失わずに済むだろう。
父も母も、きっと自分を案じる。
教師たちは諭し、神殿の者たちは正しい道を説くだろう。
だがそれでは何も変わらない。
見てしまった。
知ってしまった。
この国の中で、踏みにじられる側の人々がいること。
そしてそれが、当然の“理”として処理されている冷酷な現実を。
それを知ってなお、温室で微睡み続けることは、メイベルにとって最大の怠慢だった。
「ティダン様……」
胸元の聖印に、そっと触れる。
祈りの中で聞いた声。
それが自分の進むべき道を照らし、抱いた夢と重なり合った。
そして今、ようやくその道の入口に立ったのだ。
メイベルは、ベッドの柔らかさに全身を委ねた。
緊張が解けた身体に、蓄積していた疲労が泥のように押し寄せてくる。
まぶたが、少しずつ重くなっていった。
「ユウナ様は……厳しい方です」
小さく、眠りに落ちる前の声で呟く。
「でも、だからこそ信じられます」
優しい言葉だけをくれる人なら、今まで幾人もいた。
慰める者。
褒める者。
期待すると言う者。
無理をしなくていいと諭す者。
その多くは、きっと善意だった。
ユウナは違う。
できないことを、できるとは言わない。
無理なものを、可能だとは飾らない。
夢を夢のまま、美しく包んではくれない。
その上で差し出された手だからこそ、何よりも尊く、価値がある。
泣き言は言わない。
逃げもしない。
弱音も、決して吐かない。
「もう、始まっているのです」
かすれそうな声で、自分に言い聞かせる。
「わたくしの戦いは」
その呟きが消える頃、意識は深い眠りの中へ沈み始めていた。




