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未知との遭遇

「これは……何ですか?」


 夜。


 訓練を終えて屋敷の中へ戻ったメイベルが、最初に漏らしたのはそんな驚きの声だった。


 昼過ぎから夕方までの訓練で、体はすっかり疲れきっていた。

 腕は重く、足はまだ少し震えている。


 それでも屋敷へ一歩入った瞬間、彼女の意識は疲労とは別のものに奪われた。


 今朝は、周りを見渡す余裕などなかった。

 門の前で一晩立ち尽くした後、風呂へ運ばれ、温かい飲み物を飲まされ、促されるまま寝台へ倒れ込んだ。


 だから、この屋敷がどれほど異様なのか、ほとんど理解していなかったのだ。


 だが今は違う。


 廊下の壁に、ろうそくの火もランプの灯りも見えない照明が埋め込まれている。

 柔らかな光が、一定の明るさで揺らがずに床を照らしていた。


 水場では、栓を捻るだけで水が出る。


 しかも、水だけではない。

 湯まで出る。


 キッチンでは、火が見えないのに鍋が温まる。

 薪も炭も使わず、煙も出ない。


 そしてトドメと言わんばかりの水洗トイレ。


 それはもう、メイベルにとって完全に未知の文明だった。


「お城でも見たことのないものばかりです……」

 彼女は目を輝かせながら、あちこちを見回す。


 王城は、たしかに贅を尽くした場所だった。

 高価な調度品、最先端の魔道具、神殿から譲られた儀礼用の品。

 王家の威光を示すものなら、いくらでもあった。


 しかし、この屋敷にあるものは、それとはまったく違う。


 豪奢ではない。

 見せびらかすためのものでもない。


 ただ、生活を便利にするために、信じられないほど高度な技術が惜しみなく使われている。


「照明一つ取っても、お城の魔道具より優れているように見えます」


 一拍置いて、メイベルは真顔で続けた。

「特に、トイレの設備は凄まじいの一言です!」


 その言葉に、ルシエラが深く頷いた。

「すごくわかります」


 妙に実感のこもった声だった。


「……ふっ」

 ユウナが思わず小さく吹き出す。


 どうやら王女であっても、感動するところは同じらしい。


「ちょっと凄腕の技術者と知り合ってね」


 軽くそう言ってから、ユウナは少しだけ真面目な声になった。


「他所で言いふらしてはダメよ」


「はい」

 メイベルは素直に頷いた。


 その返事に迷いはない。

 この屋敷にあるものが、世に知られればとんでもないことになる。


 それくらいは、彼女にもすぐに分かった。


 しかし、それでも未練は残ったらしい。


 メイベルはもう一度、少し名残惜しそうに呟いた。


「でも、トイレだけは……」


「すごくわかります」

 再びルシエラが同意する。


 ユウナはとうとう肩を揺らして笑った。


 そんな話をしている間に、エリスの手によって食卓へ料理が並べられていく。

 所作は無駄なく、滑らかで、洗練されていた。

 皿の置き方一つにも、余計な音がない。


「ありがとうございます」

 自分の前に料理が置かれた時、メイベルは自然にそう言った。


 エリスは一礼し、一歩下がる。

『恐れ入ります』


 そのやり取りを見て、ユウナが小さく感嘆の声を漏らした。


「ふぅん……」


 王族がメイドに礼を言う。


 口先だけなら珍しくはない。

 社交辞令として、あるいは善良に見せるために礼を言う貴族はいくらでもいるだろう。


 しかし今のメイベルの言葉は、あまりに自然だった。


 相手が自分のために何かをした。

 だから礼を言う。


 ただ、それだけ。


 躾の良さか。

 あるいは本人の性質か。


 ユウナはカップに手を伸ばしながら、おそらく後者だろうと思った。


 メイベルはそんなユウナの視線に気づかぬまま、素直な口調で言う。

「さすがユウナ様のメイドですね。

 お城のメイドに勝るとも劣らないほどに、洗練された所作が美しいです」


「……まあ、普通に水ぶっかけてきたりもするけどね」


 ユウナがぼそりと返す。


 昼間、ルシエラと真剣で白黒つけようとしたところを、エリスに冷水で止められた件を思い出していた。


『馬鹿なことをすれば、お止めするのも私の責務です』

 エリスが淡々と返す。


「水をかける前に、声をかけて止めなさいよ」


『言えば止まりますか?』


「……まあ、止まらないけど」


『…………』


 沈黙。


 それが、あまりにも明確な答えだった。


「勝ったと思うなよ」


『もう勝負はついております』


 そのやり取りに、メイベルの肩がぴくりと揺れた。


「ぷっ……ふふふふふっ……」


 ついに吹き出す。


 慌てて口元を押さえるが、もう遅い。

 笑いは指の隙間からこぼれてしまっている。


 王女らしからぬ、といえばそうかもしれない。


 けれど、その笑い方には嫌味がなかった。

 ただ心から可笑しいと思ったのだと、誰にでも分かる笑いだった。


「……早く食べるわよ」


 ユウナが少し憮然とした感じで言う。


「はいっ」


 メイベルは慌てて背筋を伸ばした。

 しかしその表情にはまだ笑いの余韻が残っていた。


 食卓には温かな料理。

 頭上には安定した灯り。

 暖炉もないのに暖かな温度。

 そして、時折交わされる軽口と笑い声。


 訓練中の張り詰めた空気とはまるで違う、穏やかな夜だった。


 王城には王城の温かさがあった。

 両親の愛情も、教師たちの気遣いも、神殿で与えられた教えも、決して偽物ではない。


 しかしこの屋敷の温かさは、それとは違っていた。

 身分を横に置き、役割を横に置き、ただ同じ卓を囲む。

 笑い、呆れ、礼を言い、叱られ、また笑う。


 そんな、近しい者たちの温かさ。


 メイベルはスプーンを手に、ふと思った。

 ――自分は今、とんでもない場所へ来てしまったのかもしれない。


 それは、恐ろしいという意味ではなかった。

 むしろ、胸が弾むような意味で。


 ここには、自分がまだ知らない世界がある。

 王城の中からでは見えなかった、人の暮らしがある。


 そして、その中心でユウナは、気だるげに食事をしながら、エリスと言い合いをしていた。


 メイベルは笑みをこぼし、それから温かな料理を口へ運んだ。

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