依頼拒否
マイホームの整備と、リリアの工房の改装。
そのどちらも一段落して、ようやく日常が落ち着きを取り戻し始めた、数日後のことだった。
ヴァルクレア冒険者ギルド。
その奥にあるギルド長室には、いつになく重い空気が漂っていた。
机を挟んで向かい合うのは、ギルド長と、ユウナ、その隣にルシエラ。
差し出された依頼書に、ユウナは一通り目を通した。
最初は無言だった。
だが、読み進めるにつれて、その目元から温度が失われていく。
やがて彼女は、依頼書を机の上へ放った。
紙が乾いた音を立てる。
「……ギルド長には申し訳ないけど」
静かな声だった。
しかし、その静けさは落ち着きではない。
刃を鞘に収めたまま、いつでも抜けるよう指をかけているような、危うい静けさだった。
「王族なんかと関わる気はないわ」
はっきりとした拒絶だった。
依頼書に記されていた内容は、一見すれば平和なものだった。
曰く、しばらくの間王城に滞在し、姫君に冒険譚を語って聞かせること。
危険な魔物の討伐でも、蛮族の砦への潜入でも、魔域の制圧でもない。
ただ、王城へ行き、王族の求めに応じて話をする。
それだけの仕事。
だがユウナにとって、それは到底“ただの仕事”ではなかった。
「……というか、これ、依頼書じゃなくて命令書ね。不愉快だわ」
ユウナは鼻を鳴らした。
遠く離れた王都から、一方的に人を呼びつける。
こちらの都合も、過去も、心情も、まるで考慮しない。
その紙面から滲む当然のような傲慢さが、彼女の神経を逆撫でしていた。
ギルド長は腕を組んだまま、深く息を吐いた。
「……だが、条件はこれ以上ないほど良いぞ」
その言葉に、ユウナの眉がぴくりと動く。
ギルド長とて、彼女が首を縦に振らないことは分かっていた。
それでも立場上、最低限の説明はしなければならない。
「危険はない。滞在中の食費、宿泊費、移動費はすべて国持ち。報酬も破格だ。普通の冒険者なら、喜んで受けるだろうな」
実際その通りだった。
数日、あるいは数週間。
王城で姫君の話し相手をするだけ。
それで危険な討伐依頼に匹敵する、いや、それ以上の金が支払われる。
多くの冒険者なら、夢のような依頼だと感じるだろう。
だが、その好条件は、ユウナの天秤を一ミリたりとも傾かせなかった。
いや、違う。
むしろ反対側に大きく傾く……不快感をさらに深くしただけだった。
「それこそが、人を馬鹿にしてるって言ってるのよ」
声に棘が混じる。
「子供のお守りにそんな大金を突っ込むなんて、税金をなんだと思ってるのかしらね」
ガタン、と椅子を鳴らしてユウナが立ち上がった。
その動きに迷いはない。
すでにこの話は、彼女の中で終わっていた。
「用があるなら、そっちから来いって返しておいて」
ギルド長の目がわずかに細くなる。
「……行くわよ、ルシエラ」
ユウナはそれだけ言うと、踵を返して部屋を出ていった。
ルシエラは一瞬だけ戸惑った。
それからギルド長へ申し訳なさそうに小さく頭を下げ、急いでユウナの背を追う。
扉が閉まる。
ギルド長室には、紙の擦れる音すらない静寂が残った。
ギルド長は、机の上に放られた依頼書を見下ろす。
やがて、重いため息をついた。
「……まあ、当然の反応か」
責める気にはなれなかった。
あの依頼書を持ってきた時点で、こうなることは分かっていたのだ。
―――
ギルドを出た後も、ユウナは目に見えて不機嫌だった。
石畳を踏む足音が、いつもよりわずかに硬い。
怒っている。
それは誰の目にも明らかだった。
しかしルシエラには、その怒りが単なる依頼内容への不満だけではないように見えた。
横顔がいつもより遠い。
今ここではなく、もっと昔のどこかを見ているような目をしていた。
しばらく、二人は無言で歩いた。
人通りの多い通りを抜け、屋敷へ続く道へ入る。
周囲の喧騒が少し遠ざかったころ、ユウナがぽつりと口を開いた。
「王都はね、選民意識の塊なのよ」
唐突な言葉だった。
ルシエラは黙って耳を傾ける。
相槌を打つことも、続きを促すこともしなかった。
今のユウナに必要なのは、会話ではなく、聞いてくれる相手なのだと思ったから。
「弱い者、貧しい者、後ろ盾のない者。そういう相手には、何をしても許されると思ってる」
ユウナの声は淡々としていた。
だが、その淡々とした響きの奥には、古い傷をなぞるような冷たさがあった。
「特に、穢れを持った者にはね」
ルシエラの胸が、わずかに痛んだ。
ナイトメア。
人族でありながら、穢れを持って生まれた者。
それだけで忌まれ、疎まれ、時に人として扱われない存在。
ルシエラにもその言葉の重さは、痛いほど分かる。
ユウナは話している相手であるルシエラに視線を向けることもなく、ただ前を向いたまま続けた。
「彼らにとって私たちは、便利な最下層だったのよ。見下していい相手。踏みつけても心が痛まない相手。自分たちはまともで、正しい側にいるんだって確認するための、都合のいい存在」
それはユウナの中での結論だった。
長い時間をかけて、痛みと経験の中から削り出された、冷えた結論。
「それを主導していたのは、王族を含む上位貴族たち。少なくとも、私にはそう見えたわ。
最下層に私たちみたいな存在を置いておけば、大多数の市民は安心する。自分たちはまだ一番下じゃないって思えるから」
ユウナは声を上げて笑った。
だがその笑い声には、少しも愉快さがなかった。
「くだらない構造よね」
ルシエラは何も言えなかった。
ユウナは、かつて王都に住んでいた。
ナイトメアとして生まれた彼女を待っていたのは、祝福ではなかった。
蔑み。
罵声。
差別。
そして、見て見ぬふり。
冒険者になってからも、まともな依頼は回されなかった。
それだけではない。
後ろ盾のない、幼く、ただ見た目だけは可愛らしいナイトメアの少女。
その身体を狙われて襲われそうになったこともある。
力を得るまでのユウナが、どれほど危うい場所に立たされていたのか。
ルシエラは、想像しただけで胸が詰まりそうになった。
「だから、王都を出たの。
あそこにいたら、いつか本当に壊されると思った。だから逃げた。逃げて、逃げて、いくつも街を渡り歩いて……ようやく、この街に辿り着いた。
もちろんこの街も、ギルドだって、最初は風当たりが強かったわ」
少しだけ、ユウナの声が和らいだ。
「でも、ギルド長だけは違った」
その言い方に、ルシエラは思わず横顔を見る。
ユウナの表情は、怒りから少し離れていた。
懐かしむような、苦笑するような、どこか柔らかい顔。
「あの人は私を特別扱いしなかった。かわいそうな子供としても、厄介なナイトメアとしても扱わなかった。ただ、未熟な冒険者として見た」
ユウナは少し考えるように目を細める。
「……いや、公平ではなかったかもしれないわね」
ルシエラが首を傾げる。
「私が不当な扱いを受けたら、すぐに見抜いて正してくれた。私に回される依頼がおかしい時も、報酬が不当に削られそうな時も、他の冒険者が絡んできた時も」
そこで、ユウナは小さく息を吐いた。
「そういう意味じゃ、他の冒険者よりずっと私を気にかけてくれていたと思うわ」
その言葉には、確かな感謝があった。
ルシエラは、そんなユウナの横顔を見つめていた。
ユウナがここまで自分の過去を語るのは珍しい。
まして、誰かへの感謝をここまで素直に口にすることなど、ほとんどない。
だからこそ、胸の奥に小さな不安が芽生えた。
「ユウナは、その……」
言いかけて、ルシエラは一度ためらう。
聞くべきではないかもしれない。
でも、聞かずにはいられなかった。
「ギルド長さんのことが、好きだった、とか……?」
「はあっ!?」
ユウナは一瞬固まり、それから吹き出した。
「ないない、それはないわよ! あっははははは!
まあ、恩はあるし人として立派だから尊敬はしてるけど……何よルシエラ、もしかして心配になっちゃった?」
「っ……! 知りませんっ!」
からかうように覗き込まれ、ルシエラは顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。
「ふふっ……まあ、あの人には恩があるから、できる限りは力になりたいんだけどね……」
少しだけ悔しそうに、ユウナは空を仰いだ。
その横顔を見て、ルシエラは密かに悟った。
――王都行きの依頼を受けない理由の、半分は自分にあるのだろう。
ユウナはきっと、自分一人なら行ったかもしれない。
嫌悪も、怒りも、屈辱も飲み込んで、それでも恩を返すために。
しかし今は違う。
依頼を受ければ自分を連れて行くことになる。
王都という場所に、自分まで晒すことになる。
だからユウナは、ああもはっきり拒絶したのだ。
その事実が、胸の奥に温かくも切ない重みを落とした。




