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パニック

 屋敷の中には、まだ甘く、どこか気怠い熱の名残が漂っていた。


 ユウナはソファに深く沈み込み、魂が抜けたような顔で天井を見上げている。

 ルシエラは、床に落ちていた衣類やクッションを拾い集めていた。


「……」

「……」


 二人とも、妙に口数が少ない。


「……なんか、気恥ずかしいわね」

「そうですね……」


 ぽつりと漏らしたユウナの言葉に、ルシエラが短く応える。


 再び静寂が訪れようとした、その時だった。


 ――ガチャン。


 玄関の方から、聞き慣れた金属音が響いた。


「……え?」

 ユウナの思考が停止する。


 ルシエラも、弾かれたように顔を上げた。

「……え?」


 二人の視線が空中でぶつかる。

 次の瞬間、心臓が跳ね上がるような衝撃が二人を襲った。


「エリス!?」

「早くないですかっ!?」


 完全に予想外だった。


 エリスはしばらくリリアの工房に泊まり込むはずだった。

 今この時間に戻ってくることなど、万に一つもないはずなのだ。


 一瞬の硬直。


 そして、二人は火がついたように飛び起きた。


 クッションをひっくり返して整える。

 ブランケットを引っ張る。

 乱れた髪を手櫛でどうにかしようとする。

 テーブルの上を必要以上に、しかも無意味に片付ける。


 焦燥に駆られた動作は、どれもこれも致命的にちぐはぐだった。


「ちょっと、ルシエラ、それ私の上着!」

「ユウナこそ髪が……ああもう、めちゃくちゃです!」


 なぜかソファの位置まで微調整し始める始末である。

 どう見ても、“何かを隠しています”という不自然さが、全体から滲み出ていた。


 そして。


 リビングに現れたエリスは、そんな二人を視界に入れると――ほんの一瞬だけ、彫像のように動きを止めた。


『……ただいま戻りました』

 いつも通りの、抑揚を抑えた声。


 だが、そのわずかな間は、確かにすべてを察した者の間だった。


 ユウナとルシエラは、示し合わせたように背筋をぴんと伸ばして直立不動になる。


「お、おかえり! 早かったわね!」

「そ、そうですよ。もっと時間がかかると思っていました!」


 揃って上擦った声。


 エリスの淡い瞳が、室内を静かに巡る。


 わずかに角度のズレたソファ。

 不自然に整えられたブランケット。

 妙に片付けられたテーブル。

 そして何より、顔を真っ赤にして挙動不審を極めている二人。


 確証を得るには十分だった。


 だが、エリスは何も追及しなかった。


『工房での作業に必要な道具のうち、一度では持ちきれなかった分を回収しに参りました』

 淡々と、何事もなかったかのように説明する。

『すぐに回収して戻りますので、お気になさらず』


「そ、そうなのね! 道具ね、大事よね!」

 ユウナの返事が、無駄に大きい。


「そういうことでしたか……ええ、どうぞご自由に……」

 ルシエラも頷きながら、視線のやり場に困って泳がせている。


 エリスはそのまま室内を横切った。


 そして途中で、ふと立ち止まる。


 ユウナとルシエラの肩が、びくりと跳ねた。


『あ』


 短い声。


「な、なになになに!?」


『……クッションが一点、床に落ちております』


「…………」

「…………」


 ルシエラが無言でそれを拾い上げる。


 エリスは何事もなかったかのように壁際の収納から工具箱を取り出した。


 それから、去り際に少しだけ振り返る。

『では、行ってまいります』


 さらりと告げて一礼する。


 そのまま立ち去ろうとするエリスを、ユウナは顔を真っ赤にして呼び止めた。

「ちょ、ちょっと待って!?」


 エリスは静かに首を傾げる。

『はい』


「い、今のは……その、違うのよ! 違わないけど、その……!」

 言葉が続かない。


 ルシエラに至っては、もう顔を覆ったまま俯いて動かなくなっている。


 エリスは二人をじっと見つめた。


 そして、ほんの少しだけ――本当に、識別できるかどうかというほど微かに、目元を和らげた。

『何も見ておりません』


「絶対見たでしょ! 今の言い方は確信犯でしょ!」


『道具を取りに戻ったのみです。当機の視覚素子は、業務に不要な情報を記録しておりません』


「言い回しがおかしいです……!」

 ルシエラが消え入りそうな声で抗議する。


 だが、エリスは最後まで凪のように落ち着いていた。

『戻りが遅いと、リリア様が工房でご心配なさるかもしれません。失礼いたします』


 そう言って、今度こそ扉へ向かう。


「エリス!」


 なおもユウナが呼ぶと、扉から出ようとしていたエリスは、間を空けずに振り返った。

『はい』


「……その、気をつけてね。作業、無理しないで」


 結局、最後に絞り出せたのはそんな言葉だった。


 エリスは頭を下げながら言う。

『ありがとうございます』


 そして、まるで何気ない業務連絡のように続けた。


『これで本当に、二週間から三週間ほどは戻る予定がありません』


 一拍。


『急な要件がございましたら、通信機にてご連絡をお願いいたします』


「~~~~っ!!」

 ユウナが声にならない絶叫を上げた。


 ルシエラは完全に両手で顔を覆い、膝から崩れ落ちそうになっている。


 扉が閉まり、屋敷に再び静寂が訪れる。


 数秒の後。


「……聞いた?」

「……聞きました」


「完全にバレてたわよね」

「……はい」


「……あれは、優しさ……なのよね?」

「……たぶん」


 ユウナがソファへ崩れ落ちる。

 ルシエラも観念したように、長いため息をついた。


 その直後。


「……戻る予定がないって、もうそれは!」

 遅れてやってきた猛烈な羞恥心に耐えかね、ユウナがクッションを抱えてばたばたと暴れ始める。


 ルシエラは顔を赤くしたまま、けれど少しだけ困ったように笑った。

「……気を遣ってくれたんですよ。その、私たちの……ために」


「気を遣われる側になるの、こんなに恥ずかしいのね……」

 その情けないぼやきは、閉まった扉の向こうにはもう届かない。


―――


 しかし一方。


 工具箱を抱えて工房へ向かう道すがら、エリスは誰にも見られていないこと確認して、わずかに口元を緩めていた。


 主たちの絆が深まっていることは、彼女にとっても何より嬉しいことだった。


『お屋敷に戻ったら……』

 独り言が風に混ざる。


『夜間の私の待機場所は、主寝室から距離を置いた位置に再設定すべきですね』


 小さく頷く。


『本格稼働の前に気付けて、良かったです』


 銀髪のメイドは、どこか弾むような足取りで、リリアの工房へ歩いていった。

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