二人きりの時間
「今日はどうしますか?」
ルシエラが淹れたお茶を、ユウナのカップへ注ぎながら尋ねた。
朝の屋敷には、穏やかな光が差し込んでいる。
照明も空調も、すっかり生活の一部になりつつあった。あれほど感動していた蛇口から出る湯も、今では当然のように使っている。
慣れとは恐ろしい。
「そうね……」
ユウナは、立ち昇る湯気を見つめながら少し考えた。
エリスはリリアの工房へ出張中。
屋敷の改装も一段落し、ここ数ヶ月続いた金策の日々も、ようやく少し落ち着いてきたところだ。
「改装のごたごたも一段落したし、今日はガツガツ依頼を受ける気分じゃないわね」
カップを手に取り、香りを楽しむ。
「軽く訓練場で汗を流して、あとはゆっくりしましょうか」
「いいですね」
ルシエラも穏やかに頷いた。
そんな、実に平和な予定を胸に、二人は冒険者ギルドへ向かった。
だが――。
「ダメだ」
訓練場の使用許可を得ようと窓口で申請した途端、奥から出てきたギルド長に、にべもなく拒否された。
「……何でダメなのか、納得できる説明はあるのよね?」
ユウナの眉がぴくりと動く。
訓練場すら使えないほどの緊急事態でも起きたのか。
あるいは、何か重大な事件の予兆か。
そんな物々しい可能性が、ユウナの頭を一瞬よぎる。
しかしギルド長は、深いため息とともに言い放った。
「お前たちが訓練場を使うと、後片付けがめちゃくちゃになる」
「……は?」
一瞬の沈黙の後、ユウナは素っ頓狂な声を上げた。
「木剣は何本もへし折って使い物にならなくする」
ギルド長は指を一本立てる。
「地面に亀裂を作る」
二本目。
「壁を斬り飛ばす」
三本目。
「天井にまで穴を開ける」
四本目。
「しかも極めつけは、お前たちの動きを端で見学していた若手や中堅どころが、あまりの実力差に自信を喪失して、引退を考え始めることだ」
「…………」
「頼むから、訓練はどこか他所でやってくれ」
ギルド長の声には、疲れが滲んでいた。
「できれば、誰もいないところで」
それはギルド長としての命令というより、もはや切実な懇願だった。
ルシエラが、気まずそうに視線を逸らす。
「……その、すみません」
「なんか、その……ごめん」
ユウナまで、珍しく素直に謝った。
さすがの彼女も、被害額と精神的被害の大きさを突きつけられては、強く出られなかった。
「まあ今日は街を見て回って、軽くお昼を食べて帰りましょうか」
「そうですね」
予定は、拍子抜けするほど平和なものになった。
訓練場は使えない。
依頼を受ける気分でもない。
ならば今日は、ただ街を歩き、昼食を取り、何事もなく帰る。
それだけの一日。
しかしそういう一日が、二人にとってはひどく久しぶりだった。
―――
屋敷へ戻った頃には、陽はまだ高かった。
広間には柔らかな光が満ちている。
魔動機文明式の空調が、静かに心地よい空気を保っていた。
「何もしない一日っていうのも、久しぶりねぇ」
ユウナはソファに身体を預け、大きく伸びをした。
力の抜けた身体。
緩やかな呼吸。
戦いから解放された、無防備な姿。
「……そうですね」
ルシエラがそのすぐ隣に腰を下ろす。
近い。
ほんの少し、肩が触れる距離。
そして――ユウナの手の上に、ルシエラの手がそっと重ねられた。
「……えーっと」
ユウナの声が、わずかに揺れる。
「ずっと、張り詰めていましたから……」
ルシエラの声は静かで低い。
だがその奥には、抑えきれない熱が澱のように溜まっていた。
「ルシエラさん?……迫るのは、私の担当だと思ってたんだけど……」
軽口で誤魔化そうとしたが、返ってきたのは――。
「私だって……欲しくなることはあります」
拒絶を許さない、はっきりとした意志だった。
次の瞬間、ユウナの視界が劇的に反転した。
「……っ!?」
気がつけば、ソファに押し倒されていた。
逃げ場はない。
覆いかぶさるルシエラの重みが、心臓の鼓動を直に伝えてくる。
鼻先が触れ合うほどの距離で、吐息が肌を撫でる。
「ま、待って……」
抗おうとした声は弱く、霧のように消えた。
完全に押し切られている。ルシエラの指がユウナの顎に触れ、わずかに持ち上げて――その視線を、強制的に自身へと固定させた。
「や……め……」
言葉では拒んでいるのに、身体は鉛のように動かない。
ルシエラの指が顎から首筋、そして鎖骨へと滑り落ちる。
びくり、とユウナの肩が震えた……
その小さな反応を見逃さず、ルシエラの瞳が妖しく光る。
「敏感ですね。ユウナ」
「ル……ルシエラ……っ」
抗議の言葉は、重なった唇によって塞がれた。
強引ではない。けれど、決して逃がさないという確かさ。
一度、触れるだけの密やかな接触。
「……っ、ん……んぅ……」
そして、離れないまま、深く、深く……
やがてルシエラはゆっくりと唇を離したが、その距離は鼻先が触れ合うほどに近いままで。
「……もっと」
視線を外さず、命令するように、あるいは乞うように言う。
「見せてください。私だけの、ユウナを」
ルシエラの指が、ユウナの上着のボタンに手をかける。
「だ、だめ……っ」
小さく首を振るユウナ。だが、その瞳は完全に熱に潤んでいて、拒絶の体をなしていない。
ルシエラは妖艶に微笑んだ。
「逃げないんですね?」
ユウナの指が、ソファの布をきゅっと掴む。
押し返すことはできた。
けれど、しなかった。
むしろ、僅かに力を抜いてしまう。
張り詰めていたものが、ゆっくりと解けていくように。
「ルシエラ……あぁ……」
静まり返った屋敷。
陽光が差し込む、誰もいない昼下がり。
外界から遮断された、二人だけの濃密な時間が甘く流れていく。




