いってらっしゃい
「一人で大丈夫?」
『はい。お任せください』
「無理しないでくださいね」
『ありがとうございます』
新居の玄関先で、そんな会話が交わされていた。
前の宿から、家具や生活用品を運び終えたばかりの屋敷。
まだ家具のない部屋には足音がよく響き、壁や床には長い年月の跡が残っていた。それでも、この家には確かに新しい暮らしの息吹が満ち始めていた。
ユウナたちは今、本格的な金策の必要に迫られている。
家は買った。
だが、本番はそこからだった。
改装費。
設備費。
希少な魔動機部品代。
必要な金額を考えれば、これまでの貯蓄を全て吐き出せば届くかもしれない。
しかし、冒険者にとって手持ちの資金を空にするのは、命綱を自ら細くするのと同じことだ。
消耗品の補充。
不測の事態への備え。
そして、日々のささやかな楽しみ。
それらを削ってまで、家だけを豪華にしても意味がない。
「せっかく新居を構えたのに、食事も生活も節制しなきゃいけないなんて悲しすぎるわ!」
ユウナの本気で嫌そうな顔に、ルシエラも深く同意した。
「それは……確かに嫌ですね」
だからこそ、役割分担は決まった。
ユウナとルシエラは、受けられるギルドの依頼を片っ端から受けて稼ぐ。
その間、エリスが屋敷に残って改装に着手する。
改装の内容が内容だけに、外部の職人を入れるわけにはいかない。
動力設備。
水道機構。
防衛用センサー。
現代の人間には説明のしようがない、失われた魔動機文明の技術ばかりだ。
下手に職人を呼べば、怪しまれるどころでは済まない。
エリスは静かに、しかし頼もしく微笑んだ。
『こう見えて、力仕事もこなせますから』
その言葉通り、改装にはかなりの重労働が含まれていた。
床を剥がし、壁の一部を崩し、配線用の経路を作る。
井戸まわりの設備を設置、動力の経路を設計し、部屋ごとに照明と配管の位置を決める。
当初はユウナたちも手伝うつもりではいた。
だが、エリスは申し訳なさそうにそれを断った。
『計測に基づいた正確な、それこそ数ミリ単位の作業が必要ですので……』
その言い方で、二人はすぐに理解した。
大雑把に壊して、後から調整する。
現代の職人仕事なら、それで済む場面も多い。
だが、エリスの扱う魔動機文明式の設備は違う。
配線も配管も、動力の流れも、誤差を許さない。
前提となる感覚そのものが違うのだ。
二人は納得し、自分たちの役割――つまり稼ぐことに集中することにした。
出発の直前。
玄関先で、ユウナはもう一度エリスを振り返った。
「無理せず、ちゃんと休むのよ?」
「戸締まりも、しっかり確認してくださいね」
『あの……』
エリスが、困ったように口を挟む。
しかしその声には、どこか楽しげな響きもあった。
『子供を心配されるような言い方をされると少し……一応、私……お二人より年上なのですが……』
それは間違いない。
実年齢で言えば、エリスは三百年以上の歳月を重ねている。
どこをどう取っても、ユウナやルシエラより遥かに年上だ。
外見だけを見ても、二十代前半ほどに見えるその姿は、まだ二十歳にも満たない二人より大人びている。
だが――
「ご飯も、きちんと食べるのよ?」
「寝るときもしっかり暖かくして、体を冷やしてはダメですよ?」
完全に聞いていなかった。
もはや過保護な母親か。
あるいは、初めて親を置いて出かける子供のような。
どこか奇妙で、しかし温かい心配が次々に投げかけられる。
エリスは目を丸くして、数回瞬きをした。
それから、ほんの微かに人間らしく笑った。
『……はい』
素直な返事だった。
食事や睡眠ついては説明した、不要な心配だなどと、野暮なことは言わない。
心配されること。
気にかけられること。
帰ってくることを前提に、言葉をかけられること。
そのすべてが、彼女にとってはまだ不思議だった。
しかし胸の奥が、じんわりと熱くなるほどに温かかった。
機械の身体になってからの三百年超。
そんな言葉を投げかけてくれる存在はいなかったのだ。
エリスは、静かに姿勢を正す。
そして深々と一礼した。
『――いってらっしゃいませ』
ユウナが手を振る。
白い歯を見せて、にっと笑った。
「行ってくるわ!」
「留守番、お願いしますね」
扉が閉まる。
二人の足音が、少しずつ遠ざかっていく。
静かになった屋敷の中で、エリスはしばらくの間、その扉を見つめていた。
心の中が、凪いだ海のように満たされている。
それは、何百年も忘れていた感覚だった。
独りではない。
誰かが出かけて、誰かが帰ってくる。
その場所を、自分が守っている。
そんな、あまりにも当たり前で、あまりにも幸福な感覚。
やがてエリスは、袖を軽く捲り上げ、工事用の道具を手に取った。
『……さて』
小さく呟くその声は弾んでいた。
『最高に住み心地の良い家に、仕上げなければなりませんね』
愛すべき“家族”のために。
銀髪のメイドは、失われた過去の技術を現在に刻むべく、軽やかな足取りで作業へと向かった。




