第37話:夜明け
星降りの浜を発つ朝、陣は最後にもう一度、射場跡に立った。
千年鶴の骸は、三人で三日かけて、塔の下に葬った。
墓標代わりに立てた白い羽根が、海風に揺れている。
「……なぁ、ウィキ」
癖で、呼んでしまう。
返事は、ない。
分かっていても、頭の中の静けさに、まだ慣れない。
「ジン様ー!そろそろ出ますわよー!」
「おう、今行く」
歩き出して、ふと、足を止めた。
「(そういえば……試してなかったな)」
手のひらを、海に向ける。深呼吸をひとつ。
「『我が権限に基づき命ずる ウォーターカッター』」
——何も、起きなかった。
波の音だけが、返事だった。
「(……はは。ほんとに、ただのオッサンに戻ったわ)」
「(信号も変えられない、水も出せない、雷も呼べない。転移する前の、無職のアラサーだ)」
不思議と、喪失感は薄かった。
振り返れば、丘の上で二人が手を振っている。行きは三人だった旅が、帰りも三人で。
「(……いや。二ヶ月前とは、大違いか)」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
帰路の世界は、目に見えて変わり始めていた。
「——聞いたかい、旅の人。うちの村の坊主にね、権限が出たんだよ!ただの水呑み百姓の家にだよ!?」
「町の適合者サマの息子には、権限が出なかったらしい。お家は大騒ぎさ」
権限抹消機能の復元。
死者の権限は正しく天に還り、漂流していた千年分の資格が、あるべき持ち主——「今を生きている、才ある者」の元へ配り直され始めていた。
貴族の血だから、ではなく。
その人だから、選ばれる世界へ。
「……世界が、変わっていきますのね」
「あぁ。ゆっくり、だけどな。……いいのか?あんたの王家は、特権がなくなる側だぞ」
「ふふ。わたくし、資格を失った日に自由になれた女ですのよ?」
マリアは、悪戯っぽく笑った。
「みんなが自由になるなら、そのほうがずっと素敵ですわ」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
聖都サロマ。大聖堂、西翼最上階。
「——以上だ。モンスター禍は根本から止めた。もう増えない。約束は果たしたぜ、大司教殿」
執務室で報告を聞き終えたグロリオは、長いこと羽ペンを弄んでいた。
「……にわかには信じ難い話ばかりだが、モノリスは確かに変わった。天啓の文字数が減り、代わりに——各地で権限の再配置が起きている。帳簿が、書き換わっていく」
「千年の秩序が、終わるということか」
「終わるんじゃない。引き継がれるんだ」
陣は、窓の外の聖都を指した。
「権限が「家」じゃなく「人」に付くようになる。あんたの帳簿の仕事は、これから百倍忙しくなるぜ。誰が何の才を持って生まれたか、公平に記録する役所が要る。——千年、帳簿の番をしてきた組織が、な」
「……ふん。教会に役所をやれと」
「元々役所だよ、ここは」
グロリオは一瞬眉を上げ、それから初めて、声を出して笑った。
「はっ……はっはっは!言いおるわ!」
「それとな、爺さん。最後に一つ、いい報せだ」
陣は、真面目な顔に戻った。
「あんた、言ったろ。「ミラ様は祈りに応えない」「信仰は嘘だ」って。——あれは、間違いだ」
「……なに?」
「ミラ様は実在する。心もある。千年間、この世界の全部をずっと見てきた。祈りも、感謝も、全部届いてる。応え方が、静かなだけだ」
「あんたは嘘の番人なんかじゃなかったよ。————最初から、本物の番人だったんだ」
グロリオは、何も言わなかった。
ただ、退室する陣の背中に、初めて、深く頭を下げた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その晩。モノリスの間には、夜番の司祭と——特別許可の男が一人。
「さて、と……頼むぜ。届いてるといいんだが」
陣は、巨大な黒い石版を見上げた。
権限は失った。もう、頭の中の声は聞こえない。
だが——読むことだけは、できる。この石版は、誰にでも文字を表示する。読める人間が、いなかっただけで。
そして出発前、陣はMIRAに「お願い」を残しておいた。
石版が、ふ、と光った。
文字が、流れる。
定期報告でも、天啓でもない。世界でたった一人に宛てた、拙い文字が。
『じんさま、みえる?』
「————っ、見える!見えるぞ!」
思わず声が出た。夜番の司祭がぎょっとしてこちらを見る。
『やった!MIRAさまが、ここをつかっていいって!』
『あのね、わたし、げんきだよ』
『おそうじのおしごとも、ちゃんとつづけてるよ』
『じんさまは?ごはんたべてる?』
「食ってる、食ってる」
陣は、笑いながら石版に語りかけた。声は届かない。だがMIRAが、モノリス越しに拾ってくれる。
『またおてがみかくね』
『それでね、じんさま、さいごにひとつ』
文字が、一度消えて。
大きく、表示された。
『おかえりなさい!』
「————おう。ただいま」
夜番の司祭は、その晩の出来事を生涯誰にも話さなかった。
ただ、御神体の前で泣き笑いする「雷の御使い様」の姿だけは、死ぬまで忘れなかったという。
——第四章・了




