第26話:湖の主
<サロマ湖の主>
種別:伝承
備考:曰く、湖には千年主が棲む。曰く、主は川を渡る鹿の群れを、群れごと丸呑みにする。曰く、主の背を見た漁師は、網を捨てて祈るという。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
夜明け前。三人とカーシャは、湖沿いの街道を北へ急いでいた。
「夜明けの漁船に紛れて対岸へ渡ります。教会の目は街道に集中していますから、湖上が一番安全——」
カーシャの言葉は、そこで途切れた。
足元が、揺れたのだ。
「地震…?」
「違う…!皆様、湖を!!」
湖面が、沸騰するように泡立っていた。
水鳥が一斉に飛び立ち、係留された漁船が木の葉のように揺れる。
そして——夜明けの薄明かりの中、それは湖面を割って現れた。
最初に見えたのは、背鰭だった。小舟ほどもある、ぼろぼろの背鰭。
次に、背中。赤い、巨大な背中。ところどころに黒い瘤が岩礁のように盛り上がり、湖の水を滝のように零しながら、せり上がっていく。
「なんて、大きさだ…」
体長は、優に五十メートルを超えていた。
巨大な魚だ。婚姻色の名残りか、緋色の体側が朝焼けに濡れて光る。だがその輝きを、黒い瘤の群れが病のように蝕んでいた。
濁った両目が、ぎょろりと岸を向く。
『ジンさま!あのこ!あのこだよ!』
「(分かってる…!2匹目のコアモンスター…!)」
「う、嘘でしょう…あれは、おとぎ話の…」
カーシャの声が震えていた。
「湖の主…!鹿の群れを丸呑みにするという、あの…!」
その伝承が誇張でないことは、すぐに証明された。
主は湖岸に押し寄せると、逃げ遅れた漁師の馬車を——馬ごと、ひと呑みにしたのだ。
「まずい!街の方に向かってる!」
湖岸の先には、祭りの後の聖都が無防備に眠っている。早鐘が鳴り始めた。
「ジン様!」
「あぁ——やるしかねぇな!」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
戦端は、ランスロットが開いた。
『ミラリスの権限に基づき命ずる エクソス!!』
疾風が湖岸を駆け、巨体の側面を斬り上げる。
だが、ダンジョンの熊と同じだ。裂けた傷口に黒い粒子が殺到し、瞬く間に塞がっていく。
「やはり再生するか…!」
直後、主の巨大な尾が、大きく振りかぶられた。
「——防波堤が!総員、高所へ!!」
轟音。
石積みの防波堤が尾の一撃で砕け、堰き止められていた湖水が、湖岸の低い区画へ雪崩れ込んだ。
濁流が引いた後——岸辺の一帯は、膝の高さまで水に沈んでいた。
「げほっ…!皆、無事か!?」
「なんとか…!ですが、これでは…!」
見渡す限り、水、水、水。
逃げ遅れた漁師たちが水を掻き分けて逃げ惑い、味方も、民も、誰も彼もが同じ水たまりの中に立っている。
そしてその水たまりは、湖と、主の巨体と、切れ目なく繋がっていた。
「(岸に乗り上げたところを、電気で仕留める腹積もりだった。水浸しの的なんて感電の教科書だ。だが——)」
「(この状況で撃ったら、全員まとめて感電する)」
水は電気を通す。それは敵だけを選んでくれない。
雷は水面を走り、主と、漁師と、マリアと、ランスロットを、平等に灼くだろう。
『ジンさま、だめ!いまびりびりしたら、みんなまで、びりびりだよ!』
「(分かってる!くそ、水属性で削るか?いや再生が上回る。どうする——)」
主が、水没した岸へと乗り上げてくる。一歩ごとに水面が波打ち、家々の壁が軋む。
「(考えろ。条件を並べろ)」
「(一。この浸水は湖の水だ。……待て。そういえば、さっきから鼻につく、この匂い——潮の匂いだ)」
「(この湖、海と繋がってやがる。汽水湖だ。塩を含んだ水は、真水よりずっとよく電気を通す。導線としては上等——上等すぎて、余計に撃てない)」
「(二。撃てないのは、民と味方が「同じ水」に浸かってるからだ。なら、水を「同じ」じゃなくすれば——)」
そこで、陣の思考が跳ねた。
「(————水を、切り分ける)」
「(マリアの魔法で出てくる水は、空気から集めた生成水だ。塩も泥も混じってない、正真正銘の純水。そして純水は——ほとんど電気を通さない!)」
「マリア!!」
「は、はいっ!」
「でかい仕事だ!この浸水地帯と湖の間を、あんたの水で仕切ってくれ!壁でいい、途切れさせずに!あんたの魔法の水なら、雷を止められる!」
「わたくしの水が、雷を…?」
「あぁ!あんたの水は世界で一番きれいな水だ!きれいな水は雷を通さねぇんだよ!」
マリアは一瞬だけ目を見開き——すぐに、深く頷いた。
「承知いたしましたわ。……第三階位、広域制御。やったことのない規模ですけれど」
「できるか」
「ふふ。わたくしが決めましたの。やりますわ」
「ランスロット!お前は水の中の民を壁のこっち側へ!終わったらあのデカブツを防波堤の先まで挑発して、合図で跳んで離脱しろ!」
「引き受けた!!」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
『我が権限に基づき命ずる————ウォーターウォール』
マリアの両手が、緩やかに舞う。
浸水した街並みの中に、白い水の壁が立ち上がった。
一枚。二枚。三枚——生成されたばかりの澄んだ水が、途切れのない帯となって、浸水地帯と湖とをゆっくりと隔てていく。
「なんて…規模だ…」
朝焼けを透かして輝く水の壁は、さながら光の帳だった。
後の聖都で「聖女の白帳」と語り継がれる光景である。
「はぁっ……はぁっ……まだ、ですわ……まだ、保たせます……!」
その帳の内側へ、ランスロットが疾風のように民を運び込む。老いた漁師を二人抱え、三往復。
「これで最後だ!——さぁ来い、化け物!お前の相手はこちらだ!!」
挑発に応え、主が防波堤の残骸を乗り越え、湖側へと身を乗り出す。
その巨体は今、半身まで塩の水に浸かっていた。
「ランスロット、跳べェ!!」
疾風が水を蹴り、壁の内側へ跳び込む。
役者は、揃った。
「(純水の壁の内側は、絶縁。壁の外は、海水並みの導線。回路は切り分けた——後は、流すだけだ)」
「(ロマンってより……こいつは、理科の実験だな!)」
陣は防波堤の残骸——乾いた石積みの上に跳び乗り、湖に向かって両手を突き出した。
『我が権限に基づき命ずる————』
『——ディスチャージ!!』
【認証しました】
世界が、白く灼けた。
陣の両手から迸った雷光は、まっすぐ湖面へと突き刺さり——そこから、網になった。
枝分かれした稲妻が塩の水を伝い、湖面いっぱいに走り、広がり、絡み合う。
湖そのものが一枚の雷と化し、その中心で、主の巨体が硬直した。
白い水の壁の内側には、雷は一筋も入らない。
民たちは光の帳越しに、湖が白熱するのを、ただ呆然と見上げていた。
音は、一拍遅れてきた。
空気の裂ける轟音。立ち上る水蒸気。黒い瘤という瘤が、内側から爆ぜていく。
主は、断末魔さえ上げられなかった。
巨体はゆっくりと、湖面に横倒しになった。
「……はぁっ、はぁっ……効いた、か…?」
『コアのはどう、ていし!——2ひきめ、とまったよ!ジンさま!』
黒い粒子が、朝焼けの空へ霧のように立ち上っていく。
それを見届けて——マリアが、糸の切れたように膝から崩れた。
「姫!!」
誰よりも早く、ランスロットが抱き留める。
「…ふふ。保たせ、ましたわよ…ジン様…」
「あぁ。あんたの壁が、全員守った。大金星だ、姫さん」
「聞きまして、ランスロット…?大金星、ですって…」
「聞きました。聞きましたとも。……ですからどうか、もうお休みください。————心臓に、悪うございます」
絞り出すような声で懇願する騎士の腕の中で、姫は満足そうに目を閉じた。
湖面には、瘤の崩れ落ちた赤い大魚が浮かんでいる。
緋色の体側が、昇り始めた朝日を映して、静かに揺れていた。
「…元は、この湖の王様だったんだよな。千年の伝説になるくらい、立派な」
「あぁ。……病気が治って、よかったな。王様」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「————見たか」
「見た」
「見たか、今の」
「見たと言っている」
湖岸の丘の上。駆けつけた警備隊の先頭で、ファイロは棒立ちになっていた。
水を操る杖なしの男が、雷を放った。
いや、それだけではない。
「フ、ファイロ様…属性は、一人に一つの、はず、では…」
「あぁ。千年、そうだった」
「それに、あの白い水の壁…!民を守って、雷を一筋も通さなかった…!あんなもの、見たことが…」
「あぁ。俺もない」
ファイロは答えながら、目を離せずにいた。
湖を丸ごと雷に変える力。
その力を、民の一人も濡れ鼠の一匹も巻き込まずに振るった、あの手際。
「(素手の詠唱。二つの属性。壊れた石版を起こし、モノリスは「管理者の覚醒」を告げた)」
「(力だけなら、化け物で済む。だがあれは——力の使い方を知ってる。千年前の、神々の使い方を)」
「(教義にはない。だが、伝承にはある。神々の御代には、全ての力を統べる者がいた、と)」
気付けば、膝が落ちていた。
生まれてから一度も、祈りで曲げたことのない膝が。
「ファ、ファイロ様!?」
「……うるさい。少し黙ってろ」
丘の上の異端審問官は、朝日に向かって、生まれて初めて本気の祈りを捧げた。
その顔は、恍惚としていたという。




