第21話:大司教グロリオ
大聖堂の西翼、最上階。
豪奢というより、書類の多い部屋だった。
「——以上が、今期の認定録にございます。猊下」
大司教グロリオは、羽ペンを走らせながら書記の報告を聞いていた。
歳は六十を過ぎたが、背筋は定規のように真っ直ぐで、署名の手は淀みない。
「南部のトールズ家の申請は却下。三代続けて権限の発現なし。あの家格に『水流使いの家系』の認定を続ける根拠がない」
「は。しかし猊下、トールズ家からは多額の献金の申し出が…」
「ならば『由緒ある信徒の家』の栄誉状を売ってやれ。認定と栄誉は別物だ。認定の帳簿だけは、決して汚すな」
「は、ははっ」
書記が下がると、グロリオは窓の外を見た。
祭りを待つ聖都。膨れ上がる巡礼。あの一人一人の生活が、この認定の帳簿の上に載っている。
権限持ちの認定。貴族位の裏付け。天啓の頒布。
それらを差配する教会に、金と力が集まる仕組みを「利権」と呼ぶ者もいるだろう。実際、その通りだ。
だがグロリオに言わせれば、これは管理だった。
「(力の在り処を、誰かが帳簿につけねばならん。でなければ千年前の獣の世に逆戻りだ)」
グロリオは知っている。
神代の文字の断片的な対応表——歴代の適合者たちが千年かけて書き溜めた、門外不出の解読録の存在を。
天啓の正体が「どこかの誰かによる報告」であることを。ミラ様が、人格を持った何かとして実在するらしいことを。
信仰か、と問われれば、彼は肩をすくめるだろう。
だが秩序か、と問われれば、命を懸けると答える。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「猊下。戻りました」
ノックと同時に入ってきた白い法衣に、グロリオは眉一つ動かさなかった。
「ファイロ。峠で取り逃がしたそうだな」
「ええ、見事に。いやあ、いい判断をする男でしたよ」
悪びれもせず、ファイロは椅子に腰を下ろす。
異端審問官という肩書きに似合わぬ軽さだが、グロリオはこの男の目だけは信用していた。獲物を見誤らない目だ。
「それで?」
「本物です。素手で詠唱し、崖を一枚崩して逃げた。出力は並の水流使いの数倍。こちらに気付かれてからの引き際も素人じゃない」
「……ふむ」
「猊下。あれは何です?」
ファイロの声から、軽さが消えていた。
「四十五日前の晩、モノリスが独りでに光った。歴代の記録にない異常です。そしてその三日前——姫様は資格を失っておられた。そして今、杖なしの男が現れた」
「解読録は、あの晩の文字をどこまで読めたのです?」
グロリオは、しばらく黙っていた。
やがて、机の抽斗から一枚の写しを取り出す。
「読めたのは、二語だけだ」
羊皮紙の上、震える手で書き写された神代の文字の横に、注釈がある。
『管理者』——歴代解読録、第三語群。
『覚醒』——同、第九語群。
「……管理者の、覚醒」
「教義には無い言葉だ。ミラ様の上位者とも、御使いとも、簒奪者とも読める」
「それが、あの杖なしだと?」
「分からん。分からんものは、確保して検分する。それだけだ」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「——お話は伺いましたぞ、猊下!」
執務室の扉が、ノックもなしに開いた。
香水の匂いと共に入ってきたのは、真新しい黒コートの男。頭には黒いシルクハット。
「ニードハット卿。ここは貴殿の社交場ではない」
「これは手厳しい。ですがワタクシ、猊下のお探し物について、誰より詳しい男ですぞ?なにせ直々に戦ったのですから」
ニードハット卿は勧められてもいない椅子に腰掛け、傷だらけのステッキを机に置いた。
「マリアと、鬼神と、あの無礼な貧民…いえ、杖なしの男。ワタクシのギガントゴーレムを謎の御業で溶かした、あの男!」
「それで、今日は何を売り込みに来た」
「私兵を三百、それに新型のゴーレムを二十体。祭りの警備の“お手伝い”に、無償で提供いたしましょう」
「見返りは」
「捕えた暁には——マリアの身柄を、ワタクシに」
グロリオの羽ペンが、一瞬だけ止まった。
「(下品な男だ。だが、駒は多いに越したことはない)」
「……警備の件、預かろう。配置はファイロの指示に従え」
「フォーフォッフォ!話が早くて助かりますなぁ!」
上機嫌で退室していく背中を見送り、ファイロが小さく呟いた。
「……あれの帽子、また新調してましたね」
「見なかったことにしている」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
夜。人払いした執務室で、グロリオは祭りの警備図を広げた。
「ファイロ。姫は祭りに来る。断言してもいい」
「里帰りの理由は、陛下…ですか」
「あの姫は生真面目だ。父親に頭を下げずに、自分の人生を始められん。そういう育ちをしている」
グロリオの指が、警備図の上を滑る。
大聖堂前の広場。陛下の御座所。民に手を振る、慣例の回廊。
「陛下の御通りに合わせて、警備の“穴”を一つ作っておく。賢い密偵なら必ず見つける、上等な穴だ」
「入った獲物は」
「窓のない部屋で、丁重に保護する。——姫も、杖なしもだ」
指が、止まった。大聖堂前広場の、中央で。
「祭りの喧騒ほど、静かな狩場はない」
窓の外では、大祭の飾り付けが進んでいた。
何も知らない聖都の夜に、灯りがひとつ、またひとつと増えていく。




