第16話:山の向こう
屋根の下で眠り、湯を浴び、土の味がしない飯を食う。
たったそれだけのことが、これほどの贅沢だったとは。
「うまい…うますぎる…」
「ジン様、ほっぺにシチューが付いていましてよ」
「魂が飛んでいたようだな、ジン殿」
山裾の小さな村、その唯一の宿。
ダンジョンから生還した三人は、まる一日を人間らしさの回復に費やしていた。
マリアは念のため頭巾で金髪を隠している。だが村人たちは客の詮索より、話したいことがあるようだった。
「あんたら山越えの旅人かい。いやぁ、いい時に来なすった」
「いい時?」
「ここ数日、山の魔物がめっきり大人しくてなぁ。先週まではあの尾根から瘤持ちの獣が下りてきて、まいっとったんだが」
「ぱったり出なくなってよ。ミラ様のご加護様々だわい」
「(——コアモンスターを止めた効果、か)」
「(ちゃんと世界に効いてるんだな。ウィキ、聞いたか)」
『うん!ここのあたりの“びょうき”は、もう、ひろがらないよ』
村人の笑顔に、地下で眠るあの熊の顔が重なった。
悪くない気分だった。少しだけ、世界を救う男の顔ができた気がする。
——その気分は、夕方までしか持たなかった。
「…おい、あれ」
宿の壁に、行商人が置いていったという触れ書きが貼られていた。
見覚えのある(そして相変わらず似ていない)金髪の少女の似顔絵。その隣に——新しい似顔絵が、一枚増えている。
への字口で、目つきが悪く、顎が崖のように尖った男の顔。
「なんだこの悪人面。見るからに誘拐犯って顔だな」
「あんたも気を付けなされよ。その男、「杖を持たん魔法使い」でな、姫様さらいの一味だそうだよ」と宿の女将は世間話のように言った。「異端審問官様の御一行が、峠の関まで来てなさるとか。なんでも、おっかない火のお方だそうな」
「…ランスロット、悪い。俺まで手配されてるっぽい」
「山を越えても網の中、ですか」
「(杖を持たない魔法使い、ね。どう考えても俺だ。俺なんだが——こんな顔か?俺は)」
「(それより異端審問官…例の「保護」の触れの元締めが、もう峠まで来てるのか。仕事が早いにも程があるだろ)」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その夜。寝る前の日課になった、ウィキとの打ち合わせ。
「(次のコアモンスターの場所、そろそろ教えてくれ。ここまで来りゃ聞いても倒れずに済む)」
『うん!つぎのこはね——“せいと”のちかく。おっきなみずうみに、いるの』
「(聖都の近くの、大きな湖…)」
「(………おいまさか、サロマ湖か??)」
『うん!』
「戻るのかよ!!」
思わず声に出た。隣の部屋から「ジン殿?」と声がして、慌てて咳払いをする。
「(あのなぁ…こっちは聖都から逃げてきたんだぞ。教会の総本山のお膝元じゃねーか)」
『でも、いるんだもん』
「(お前なぁ…はぁ。分かったよ。分かったけど、どの面下げて戻るんだよ…)」
『だいじょうぶ!ジンさまのお顔、にがおえより男前だから、ばれないよ!』
「(慰めになってねーんだよなぁ、それ)」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
翌朝。どう切り出したものかと悩む陣より先に、口を開いたのはマリアだった。
「お二人に、聞いていただきたいことがありますの」
朝食のテーブルで、マリアは背筋を伸ばしていた。
「わたくし——聖都に、戻ろうと思いますの」
「姫!?」
ランスロットが椅子を鳴らして立ち上がる。
「なりません!聖都は教会のお膝元、追われている我々が自分から戻るなど…!」
「ランスロット。わたくしたち、いつまで逃げますの?」
「それは…」
「一年?十年?山を越えても触れ書きは追ってきますわ。次の山を越えても、きっと同じ。逃げるだけでは、終わりが来ないのです」
マリアは、静かに続けた。
「けじめを付けたいのです。お父様と、話をしなくては。わたくしがなぜ資格を失ったのか。これからどう生きるのか。逃げたままでは、伝えられませんもの」
「危険すぎます。陛下の御前に辿り着く前に、教会に…」
「えぇ、一人では無理ですわ。王宮には、まだ信じられる人がいます。それに——」
マリアはちらりと陣を見て、いたずらっぽく微笑んだ。
「こちらには、杖なしの魔法使い様と、鬼神の騎士様がいらっしゃいますし?」
「おだてても何も出ないぞ、姫さんや」
苦笑いしつつ、陣は内心で頭を抱えていた。
「(聖都に用ができた俺としては、願ってもない展開…展開なんだが…)」
「(——なぁウィキ。お前、まさかこれも「わかってた」のか?)」
『ね?』
「(だから『ね?』を覚えるな!!)」
得意げに明滅する球体を余所に、ランスロットはまだ渋い顔をしていた。
だが最後には、深いため息と共に剣を撫でた。
「…御意。ただし、危うくなれば私は姫を担いででも逃げます。ジン殿、その時は」
「おう、殿は任せろ。まぁ、そうならないように知恵は絞るさ」
「ふふ。では決まりですわね」
マリアは窓の外、北の空を見た。
「帰りましょう。わたくしたちの、聖都へ」
その視線の先、遠い山並みの向こうに——神都サロマは、まだ見えない。




