石と手のひら
『記憶喪失少女は、それでも生きていく』番外編。
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この辺りは、人通りが少なかった。
というより、この街自体が静かだった。
時折、乗り物が通ったり、人が歩いたりする程度で、
林のあたりまで散歩に来る者はいたが、門に近づく者はほとんどいなかった。
静かで拍子抜けするほど平和な場所だった。
想像していたよりも、任務は順調だった。
……不気味なほど、何事もなく時間が過ぎていった。
——ある日の夜。
俺たちは、定期報告するために、門の近くの林に集まった。
ファビアンは見張り役ではないが、夜は観察も記録もできないため、この時間帯だけは俺たちと合流していた。
この街は日が落ちると、人の気配はほとんど消える。
夜になると、まるで無人の街のようだった。
その時間帯なら、俺たちが集まっても異界の人間に見つかることもなく、怪しまれることもない。
みんなの担当区域も俺と同じく人通りが少なく、特に問題は起きていないらしい。
門は——相変わらず開いたままだ。
見えないが、そこに「ある」ことだけは分かった。
あの門は、いつ閉まるのか。
この世界は思ったより平和だが——
……もう、長くはいたくない。
俺はそっと息を吐いた。
そんな報告をしている最中、ジルがふらりと門の歪みへ近づいた。
「……うわっ!」
ジルは声を上げた。
みんなが一斉に視線を向けると、ジルの体は門へ吸い寄せられていた。
「……おい!」
「ジル!」
俺とマーティスは反射的に飛び出した。
「おまえら、近づくな!吸い込まれるぞ!」
イリアス隊長の鋭い声が飛んだ。
エレクさんはすぐに引き寄せの魔法を放ち、ジルの体をその場に縫い止めた。
俺、ファビアン、マーティス、レオンさんの四人で、体当たりするようにして、無理やりジルを門から引き剥がした。
「おまえ、いい加減にしろ!」
ジョエル隊長が怒鳴った。
「申し訳ありません……ほんの少し、近くで確かめたくなってしまって……」
ジルは小さな体を縮め、地面に伏せるようにしていた。
……鳥の姿でそれをやられると、緊張の反動で思わず笑いそうになった。
マーティスやエレクさん、レオンさんでさえ目を逸らし、羽をわずかに震わせていた。
「まったく……いくらここが平和でも、重大任務中だぞ。遊んでいい場所じゃない!」
「……はい。申し訳ありません……」
反省したようなジルの顔は一変した。
「でも、この門を通った人が記憶を失うという話……おそらく本当かもしれません」
ジルの言葉に、空気が変わった。
「……なに?」
「さっき、ほんの少ししか門に入っていなかったのに、一瞬だけ……皆さんが誰なのか分からなくなりました」
「……おまえ……二度と門に近づくな!」
イリアス隊長が鋭く言い放った。
このやり取りも、人間にはただの鳥の騒ぎにしか聞こえていないはずだった。
——七日が経った。
特に異変はなかった。
この任務は、何ごともなく終わるかもしれない。
……そんなことを考えた直後、問題が起きた。
俺は木の上に留まり、いつものように見張りをしていた。
ここは市場のような場所で、店がいくつも並んでいた。
人通りも、門の近くよりは多い。
しかし、王都と比べれば、賑わいなどないに等しい。
トレストの郊外くらいのにぎやかさだった。
……つまり、田舎だ。
「おい、あの鳥、きれいじゃないか?」
そんな声が耳に入った。
振り向くと、男が俺を指さして、隣の女に話しかけていた。
「本当だ〜。黄色の鳥って珍しいね。何の鳥なのかな?」
……やはり、この羽の色が目立ちすぎる。
こんなことを言われるのは、何度目かもうわからない。
だが、俺はその場に留まった。
こんなことを言われても、たいていはそのまま通り過ぎていく。
そんなはずだった。
俺は慢心した。
……しかし、今回は。
——ヒュンッ!
——ドスッ!
「あっ!」
男は石を俺に投げた。
その石は右の翼へ叩きつけられた。
——ゴトッ!
俺の体は、木から弾き落とされた。
……くそ。
この野郎。
「……えっ、何してるの、やめて!あの鳥が可哀想でしょう!?」
女が男を止めようとした。
「いいって、いいって」
男は俺のほうへゆっくり近づいてきた。
手の中の石を握り直し、もう一度投げようとした。
俺は反射的に飛び上がり、その場から逃げた。
右の翼に石が直撃したせいで、まともに動かない。
それでも、左の翼だけで必死に空を掴んだ。
翼から血が流れていた。
あんな小さな石なのに……こんな傷になるのか。
人間の体なら、こんなことにはならなかったはずだ。
……鳥の姿は、脆すぎる。
……一刻も早く、ジルのところへ行かなければ。
「……うぅ……」
……右の翼にひどい痛みが走った。
感覚が、もうない。
左の翼の力も、だんだん尽きていった。
体から血が抜けていく感覚とともに、意識が朦朧とし始めた。
……くそ、異界の人間。
許さねぇ。
——ドサッ!
左の翼の力が尽き、俺は地面に落ちた。
翼を動かそうとしても、思い通りに動かない。
風の魔法で……ジルを……
……うっ。
痛みで、うまく集中できない。
……まずい。
意識が……だんだん遠のいていく。
俺は……こんなところで、死ぬのか……?
これが……俺の……最後……?
「……あれ?鳥ちゃん?……死んでる……?」
遠くから、ぼんやりと声が聞こえた。
「あっ、翼が動いてる!
ちょ、ちょっと頑張って!
死なないで!
ちょっと我慢してね!」
俺は小さく目を開け、その声の主を見た。
まだ幼さの残る女の子だった。
その子はそっと俺を持ち上げ、小さな手のひらで俺を優しく包んだ。
そのまま、俺を落とさないよう抱えながら走り出した。
……どこへ、行く?
……助けて、くれるのか?
……異界の人間、なのに?
「お母さん!助けて!」
その子は建物へ飛び込んだ。
……どこ?
……この子の、家か?
「お母さん!さっきね、この鳥を見つけたの!
すごく怪我をしてるの!治るかな?すごく痛そうなの!」
その子は、そっと俺を机の上に寝かせた。
俺は朦朧としながら、この二人の人間を眺めた。
「どれ?どれ?……血がすごく……動物病院に……
あっ、今日は土曜日だわ。動物病院、やっていないわね」
「ど、どうすればいいの?すごく痛そうだよ。死んじゃうよ!?お母さん!」
「……あずか、水とタオルを持ってきて」
お母さんと呼ばれた女性はそう言って、すぐに奥へ消えた。
あずかと呼ばれた子も、慌てて後を追っていった。
……助けて。
激痛で、もう耐えられる気がしない。
しばらくすると、母親とあずかが戻ってきた。
両手には桶や箱を持っていた。
あずかは布を濡らし、そっと俺の右の翼を拭った。
母親は箱から瓶を取り出し、木綿を瓶の中の液体で濡らすと、俺の翼に丁寧に塗り広げた。
……薬か?
鼻に突き刺さるような、つんとした匂い。
だが、その液体の冷たさで、痛みが少し和らいだ。
……俺はぼんやりと、あずかの顔を見つめた。
この子は、見覚えがある。
ときどき門の近くまで散歩していた子だ。
あずかと母親は、何度も薬を塗っては拭き、また塗っていく。
……あぁ。
痛みが、ゆっくりと引いていった。
そして、手当てが終わった。
「もう大丈夫?まだ痛い?」
あずかは優しい声で俺に話しかけた。
俺はなんとか首を横に振った。
「今日は私の部屋で休んでね。もう大丈夫だからね。心配しないでね」
あずかは俺の頭を撫でながら言った。
俺は小さく頷いた。
……あずか。
……優しい子だ。
……こんなにも、優しい。
「あずか。どうしてもよくならなかったら、月曜日病院に連れていくよ」
母親は静かに言った。
「うん!お母さん、ありがとう!」
あずかは嬉しそうに何度も頷いた。
そのまま、俺の意識はゆっくり遠のいていった。
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