エミリーの婚約
噂が噂を呼ぶ、のが普通なんだとハンナは前世の記憶から思い込んでいたのだが、真実になることもあるらしい。
王太子殿下と侯爵家令嬢の婚約が発表されたのだ。学園だけでなく国中が祝福一色に染まり、皆の口の端に登るのは王太子殿下を射止めた麗しき御令嬢のことだ。
殿下が遠い彼の国より連れ帰られた恋人を捨ててまで結ばれた愛、そして殿下を射止めた淑女の鏡であるエミリーのお淑やかで控えめな様子と、殿下の後ろを三歩も四歩も五歩も下がってついて歩く慎ましさ。これでもかというほどにぶっちぎりで褒め称える。
「私の虚像ね、噂って本当にあてにならないのね」
「ええ、エミリー様を存じ上げる私からしたらへそで茶を沸かしてしまうくらいにおかしなことでございますわ。本来のエミリー様なら、殿下の腕を引っ張ってぐいぐい先へと進み歩きますのに」
「まぁ、そんな事は無いわ。私だってきちんと立場をわきまえておりますもの。歩く道を暗に指し示す位にはとどめる心づもりはありますの」
「それにしても、まさか本当に皇太子妃殿下になられるとは。これで女性の進出も格段にスピードアップ!ですね」
「そうね、と言いたいところだけれども。今の状況を考えると何も進まないのがわかるわ」
「…ですよねぇー」
エミリーは、以前から王城に通い忙しくはしていたのだが。皇太子殿下の婚約者に決定してからは皇太子妃に向けた教育が始まり、さらに忙しくなっていた。今こうして話しているのも、実は侯爵家の馬車の中だ。学園にもなかなか来られず、ようやく出てきたエミリーと話をしようにも二人きりで話せる機会を持てず、エミリーが城に向かう馬車に同乗させてもらったのだった。
「自分のことだけで手一杯なのに、国の女性の社会進出を後押しする活動なんて夢のまた夢よ」とため息を洩らす。
「このままいくと売れっ子作家のトレイシー・ノーベルの続編が発売されない事態に陥ってしまいます。読者の皆さんは待ち望んでおりますよ!」
「ええ、わかってはいるのよ。私だってすごく書きたいし構想だって頭の中にはあるの。だけど筆をとって紙に書く時間が全く取れないの。家に帰れば疲れ果てて寝てしまうだけだし」
「構想はあるのですね?」
「ええ、もちろんあるに決まってるわ。私を誰だと思っているの。王都一の売れっ子作家なのよ」
「…残念なお知らせがあります。現在一番の売れっ子作家は、ジュリア様でございます。エミリー様が休まれている間にぐんぐん数字を伸ばし、続編に続く続編、店で不動の地位を築きあげました。さすが魅惑の小悪魔ジュリア様です。あ、違った。今は妖艶の魔術師だった」
ジュリアの小悪魔的なテクニックを載せたハウツー本からさらに進化し続け、今は大人の魅力満載の夜の街で男を惹きつける色香たっぷりのテクニック本が売れ行き絶好調だ。
「私だって、みすみすジュリアに一位の座を奪われたくないわ。このまま私が黙っているとでも思って?だけどね、時間がないのはどうしようもないの。話はいくらでも溢れててくるのに。こうしている今だってすらすらと文章が口からこぼれ落ちそうだわ」
「なら、私に良い考えがございます。スザンナをエミリー様のもとに侍女としてしばらくの間向かわせます。王城や学園への行き帰り、馬車内でエミリー様が口頭で話したものをスザンナが書き留めれば良いのです。侍女服のスザンナなら、馬車の揺れなどによってインクで汚れたって構いませんもの」
「それはなんだか申し訳ないけれど、でもそうね。それぐらいしか時間は取れないものね」
「大丈夫です!頑固な汚れを落とす魔法の洗剤を開発いたしました。近々発売なんです。なので少し位シミがついたって構いません。ただ、本当でしたらエミリー様が一人きりでお休みできるわずかな時間ですのにそこに執筆活動を挟み込むのは申し訳ないのですが」
「そんなことはないわ。かえって好きなことができて息抜きになるもの、ちょうどいいわ」
「あぁ、話しているうちにもう着いてしまいました。詳細につきましては、スザンナに言い含めてからそちらに向かわせます。侯爵家にはテイラー商会からご連絡申し上げますけれど、ただ」
「大丈夫よ。私が父に話しておくわ。王太子妃殿下になるのだから良い物に触れる機会を設けたいと言えば了承を得られると思うの」
「なるほど、それならスザンナも侯爵家とテイラー商会を行ったり来たりしていても怪しまれませんね。最上級の商品の数々をご提案させていただきますわ。勿論、気に入ったものはご購入してくださって構いませんよ」
浪速の商人よろしく商売気をちゃっかり出してみる。
「やあねえ、色気出さないで。私はトレイシーとして活動したいだけよ」
「それはもちろん。バックアップさせて頂きます。ふふ、私はトレイシー様の執筆活動をアシストしたいだけですぅ」
最後に無駄にジュリアの技を使いながら話してもみた。
「なにそれ、ジュリアのテクニック?」
さすがエミリー様、ハンナの小技に気が付いたようだ。
「やだ、エミリー様もジュリアの書籍読んでくださっているんですね」
「あなたの使い方が下手くそなのよ、その上目遣い酷いわ」
前世でもしたことのない技術はやはり、扱いが難しいようだ。少なくともハンナには無理だった。でも
「今のはいい感じだと思ったんですけどねぇ」
「そんなのに引っかかる男性がいるとは思えないわ。ちょっと誰でもいいから試してごらんなさいな」
エミリーはクスクス笑いながら馬車を降りて城へと入っていった。




