第8話 盾は受けるが飛ぶ
森の奥から、低い唸りが近づいてきた。
足音は軽い。木こりや盗賊のものではない。もっと低く、四つの点が地面を叩いている。獣だ。柔らかい足裏ではなく、爪が土を引っかく音が混じる。
私は落ち葉の下で、縄片を根にかけ直した。
罠、というには雑すぎる。根に縄をひっかけ、反対側を落ち葉の下に隠しただけだ。現場資料に出せば、赤字で「再施工」と書かれる出来である。
だが、今の私にできる範囲ではこれが限界だった。
できることを、やる。
できないことは、あとでログに怒られる。
《石核ログ》
簡易拘束線:設置
固定率:低
成功見込み:不安定
不安定。
知っている。
でも、わざわざ言われると少し腹が立つ。工事中の足場を見て「揺れます」と看板を立てられた気分である。いや、必要な看板ではある。安全第一。
茂みが揺れた。
現れたのは、狼に似た魔物だった。
ただし、普通の狼より頭が大きい。口も大きい。背中には硬い毛が針のように立っている。甲虫ほど硬くはなさそうだが、牙は長い。私を削るには十分だろう。
また牙。
この世界、牙に対する信頼が厚すぎる。
《対象解析》
名称:灰噛み狼
速度:D
硬度:E
攻撃:噛みつき/体当たり
脅威度:D
D。
高い。
小型甲虫のF+とは違う。速い相手はまずい。私は逃げられない。剣歩きは、逃走ではなく移動である。そこを間違えると死ぬ。いや、死ぬのかどうかまだ分からないが、腕は減る。
腕が減るのは困る。
私の全財産なので。
灰噛み狼は、こちらを見つけた。
正確には、落ち葉の下に隠れている私を嗅ぎつけたのだろう。鼻先を低くし、泥と石と甲虫の残骸の匂いを辿ってくる。私は息を止めた。
息はしていなかった。
便利。
狼が一歩、二歩と近づく。縄の手前。あと少し。私は牙を少しだけ立て、剣先を土に差し込む。縄が狼の前足にかかる位置まで来るのを待つ。
来た。
今だ。
私は縄を引いた。
縄が張る。根が軋む。落ち葉が跳ねる。狼の前足に縄がかかった。
成功。
と思った瞬間、狼が跳ねた。
縄は前足を半分だけ止めたが、固定が甘い。狼の体はそのまま横へ流れ、私の方へ倒れ込んできた。転倒はした。だが、止まってはいない。
転ぶ敵も危険。
新しい発見である。
「待て待て待て」と言いたかった。
言えない。
代わりに、私は剣を支点にして腕を横へずらした。狼の口が、さっきまで私がいた場所を噛んだ。落ち葉と土が弾ける。牙が地面に刺さる音がした。
危ない。
本当に危ない。
あれを腕に受けていたら、八%どころでは済まなかったかもしれない。甲虫の反省が早速役に立った。やはり、敵の牙を自分で受ける研修は一回で十分である。
狼は体勢を立て直した。
縄はまだ足に絡んでいる。だが、完全には止まっていない。むしろ怒った。喉を鳴らし、前足を振って縄を外そうとしている。
《石核ログ》
拘束:部分成功
敵速度:低下
敵攻撃性:上昇
攻撃性、上昇。
つまり、足を引っかけたら怒られた。
まあ、そりゃそうだ。
私は近くの根へ剣を刺し、腕を引いた。狼との距離を少しでも取る。だが、移動速度が違いすぎる。狼は一跳びで距離を詰めてきた。
正面から来る。
噛みつきか。
いや、違う。体ごと来る。口だけでなく、肩からぶつかるつもりだ。
体当たり。
私は受けられない。
今まで、受けるという選択肢はほとんどなかった。甲虫の攻撃は避けるか、継ぎ目を狙って止めた。盗賊は崩れて逃げた。縄は外した。真正面から衝撃を受け止める方法がない。
石なら硬い。
だが、硬いだけでは飛ぶ。
その時、腕の下に何かが触れた。
平たい。硬い。曲がっている。土に半分埋まっている。私は一瞬だけ意識を向けた。落ち葉と泥の下に、古い金属片がある。
盾の欠片だった。
丸盾の一部か。縁だけが残り、中央は割れている。錆びているが、まだ形はある。盗賊か木こりか、もっと昔の誰かが落としたものかもしれない。
考える時間はない。
私は牙で土を削り、盾片の縁に剣を引っかけた。腕の側面へ無理やり貼りつける。泥を挟む。薄石の仮止めと同じ要領で、押しつける。
固定は甘い。
だが、今は受ける面がほしい。
《石核ログ》
盾片:緊急仮装着
固定率:14%
防御補正:微小
警告:重心未設定
重心。
今それを言うか。
いや、言うべきだ。まさにそこが問題だ。盾は受けるものだが、受けた衝撃をどこへ逃がすか決めていない。腕一本の私には、踏ん張る足も、衝撃を流す胴体もない。
だが、来る。
狼が来る。
私は盾片を前に出した。
灰色の塊がぶつかった。
音が消えた。
次の瞬間、世界が回った。
いや、視覚はない。だが、地面の向きが変わった。根の位置が変わり、土の感触が途切れ、腕が宙に浮いた。盾は狼の体当たりを受けた。受けたのは間違いない。
そして、私ごと吹っ飛んだ。
受けた。
飛んだ。
これは防御なのか。
ただの高速移動では?
私は根にぶつかって止まった。外層の泥が剥がれ、牙の固定が緩み、盾片が半分外れる。剣はまだ刺さっている。いや、刺さっているというより、腕にめり込んでいるので落ちない。
剣だけは相変わらず頑丈である。
ありがとう、不良仕様。
《石核ログ》
盾受け:成功
衝撃制御:失敗
位置移動:強制
右腕表面:損傷 3%
盾片固定率:14% → 6%
成功と言い張るのか。
すごいなログ。
確かに、噛まれてはいない。正面の損傷も三%で済んだ。結果だけ見れば、盾片は機能した。だが、私は吹っ飛んだ。受け止めたとは言えない。
盾は、面で受ける。
だが、受けた力はどこかへ逃げる。
逃げ道がなければ、本体が飛ぶ。
つまり、防御には足場がいる。
また足場。
この世界、何をするにも足場がいる。足がない私に対して、ずいぶん足場を要求してくる。厳しい。非常に厳しい。
狼は少しよろめいていた。
盾片にぶつかったせいで、鼻先を打ったらしい。縄もまだ足に残っている。怒っているが、動きは乱れている。
今ならいける。
私は盾片を捨てなかった。外れかけたまま、腕の側面に押し当てる。盾で完全に受けるのではなく、滑らせる。真正面ではなく、斜め。
狼が二度目の突進をする。
私は剣を根に引っかけ、縄を少し張った。腕を固定する。完全ではないが、さっきよりはましだ。盾片を斜めに向ける。
ぶつかる。
今度は、正面では受けない。
狼の肩が盾片に当たり、斜めに流れた。衝撃で私もずれたが、さっきのようには飛ばない。盾片がぎりぎりと音を立てる。固定率がまた落ちる。だが、狼の体が横に流れ、足に絡んだ縄が根に引っかかった。
狼が転んだ。
完全に。
私はすぐに牙を出した。狼の首ではなく、前足の付け根。柔らかい部分。甲虫で学んだ継ぎ目だ。牙を当て、削るというより、引っかける。
狼が暴れた。
危険だ。
近い。
近すぎる。
私は剣を支点に、腕を後ろへ引いた。牙が浅く肉を裂き、狼が悲鳴を上げる。深くはない。倒すほどではない。だが、狼は私から距離を取った。
戦意が少し落ちた。
逃げるか。来るか。
狼は唸った。だが、前足をかばっている。縄はほつれ、盾片は外れかけ、私の腕も削れている。互いに無傷ではない。
狼が一歩下がった。
もう一歩。
そして、茂みの奥へ逃げた。
追えない。
追う気もない。
追撃という工程は、私の移動性能がもう少し上がってからにしてほしい。今追ったら、たぶん逃げた狼より先に私が疲れる。疲れるのか知らないが、部材が外れる。
私はその場で停止した。
勝ったのか。
追い払ったのか。
相手が諦めたのか。
分類は難しい。だが、今ここに残っているのは私だ。なら、今回は作業継続である。
《戦闘結果》
灰噛み狼:退避
損傷:右腕表面 3%
取得:盾片×1
新規理解:盾は受けるが、衝撃は逃がす必要がある
新規課題:重心/固定/受け流し
盾片は、腕の側面にぶら下がっていた。
ひどい状態である。固定率は低い。錆びている。形も欠けている。だが、狼の体当たりを一度受けた。私を飛ばしたが、噛まれることは防いだ。
使える。
ただし、正面から使うと私が飛ぶ。
私は盾片を外そうとした。
外れない。
いや、半分外れているくせに、肝心なところで泥と牙の根元に引っかかっている。さっきまで落ちそうだったのに、外そうとすると外れない。部材というのは、なぜこういう時だけ意思を持つのか。
私は腕を捻り、剣を根に当て、盾片の位置を調整した。真正面ではなく、側面。普段は邪魔にならない角度。必要な時だけ、腕を回せば前に出せる位置。
牙と同じ考え方だ。
常時展開ではなく、条件付き使用。
完全な盾ではない。
持つ盾でもない。
貼る盾でもない。
回して使う、受け流し用の盾片。
《石核ログ》
盾片:側面仮装着
固定率:19%
防御補正:小
衝撃耐性:1 → 1.4
可動性:E-維持
警告:正面受け非推奨
正面受け非推奨。
覚えた。
もう正面から受けない。少なくとも、足ができるまでは。足ができたら受けられるのかは知らない。足にも性能があるだろう。脚部施工の未来が遠い。
私は落ちていた縄を回収した。狼に引っ張られてさらに短くなっている。だが、使える部分は残っている。根にかければ相手の足をずらせる。盾で流せば、転ばせられる。
縄と盾。
止める道具と、流す道具。
組み合わせると、少し戦える。
私は腕に付いた牙、剣、盾片、縄を順に意識した。
折れた剣。
甲虫牙。
縄片。
盾片。
装備が増えてきた。
体はまだ腕だけなのに。
順番として、体を作ってから装備を増やすべきではないのか。
いや、現場に理想の順番はない。届いた部材から使う。足りないものは仮で組む。危険なら外す。使えるなら残す。
それが今の私のやり方だ。
森は静かになった。
ただ、遠くで狼の足音が消えていく。戻ってくるかもしれない。仲間を連れてくるかもしれない。魔物も人間と同じで、単体とは限らない。
集団。
また嫌な言葉だ。
私は根の陰に戻り、盾片を内側に隠した。落ち葉を被せ、剣を寝かせる。牙は引っ込める。縄は根にかけたまま、すぐ使えるようにする。
休む。
修理する。
次に備える。
そう思った時、盾片の裏に何か刻まれているのに気づいた。錆でほとんど潰れているが、線がある。模様か、文字か、印か。人間の持ち物だった可能性が高い。
人間の道具。
また人間。
私は盾片を少しだけ泥で覆った。
今は調べない。
まず固定。
次に使い方。
由来はその後だ。
《第8話リザルト》
遭遇:灰噛み狼
戦闘結果:退避させた
獲得素材:盾片×1
新規機能:盾受け
新規理解:正面で受けると本体が飛ぶ
上昇:衝撃耐性 1 → 1.4
未解決:重心/盾片固定/受け流し精度
盾は受ける。
でも、私も飛ぶ。
つまり今の私は、防御すると移動する。
便利なようで、かなり困る。




