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第5話 人間、弱そうで強い

泥の終わりは、思ったより急に来た。


剣を刺し、牙で削り、薄石で支え、また剣を刺す。そんな地味な作業を何度も繰り返していると、ある時、腕の下の感触が変わった。ぬるりと逃げる泥ではなく、ざらついた土。沈むが、沈みきらない。抵抗はあるが、底がある。


地面だった。


いや、泥も地面の一種ではある。だが、今の私にとっては、足場として信用できるかどうかがすべてである。沈んで戻らないものは地面ではない。あれは罠だ。自然物の顔をした罠である。


私は折れた剣を土に刺し、腕を引いた。


ずるり。


進む。


泥の中より明らかに軽い。牙も地面に刺さりにくい。薄石の仮支えもよく効く。工程が改善されると、世界は少しだけ優しくなる。


《石核ログ》

地表移動:確認

剣歩き効率:上昇

泥抵抗:低下

注意:乾燥による泥接合の緩み


優しくなかった。


すぐ注意してくる。


泥から出たら出たで、今度は乾燥が問題になるらしい。私の接着剤は泥である。泥が乾けば割れる。割れれば牙も薄石も外れる。なるほど。濡れていると重い。乾くと崩れる。


泥、面倒くさい。


だが、面倒くさいものほど現場では使うしかない。セメントも水加減を間違えると終わると、なぜか知っている。私はセメントを使った記憶などないのに、そういう判断だけが頭の中にある。


頭はない。


判断はある。


構造としてかなり不気味だが、便利なので採用する。


私は土の上を進んだ。泥に比べれば楽だが、速いわけではない。右腕一本と折れた剣による移動である。移動というより、地面を自分の方へ引き寄せている気分だった。


しばらく進むと、木が見えた。


見えた、という表現は正確ではない。視覚器官はない。だが、地面の振動、空気の変化、根の硬さ、日陰の冷たさで、そこに大きなものが立っていると分かる。たぶん木だ。


そして、その木の近くに、別の何かがいた。


軽い。


柔らかい。


細い。


なのに、動きが速い。


《対象解析》

対象:人間

肉体硬度:低

質量:中

脅威度:F

補正要素:道具あり


人間。


私は動きを止めた。


人間は、木の根元に立っていた。両足がある。胴体がある。頭もある。腕は二本。つまり、部品数では私の完全上位である。だが、ログの肉体硬度は低い。たぶん殴れば壊れる。噛めば削れる。甲虫より柔らかい。


弱そうだった。


ものすごく弱そうだった。


正直、風で折れそうである。


だが、その人間は斧を持っていた。


斧。


木の柄の先に、鉄の刃がついている。形としては単純だ。長い支え。重い刃。振り下ろすための持ち手。だが、人間はそれを、体の一部のように扱っていた。


足を開く。

腰を落とす。

斧を上げる。

刃を木に当てる。


乾いた音が鳴った。


木の表面に、深い傷が入った。


私は停止した。


待て。


あの柔らかい生き物が、木を削った。


私が牙で少しずつ削っている硬いものを、あの人間は一撃で削った。


おかしい。


本体は弱い。なのに結果が強い。


詐欺では?


《石核ログ》

人間:再評価

肉体脅威度:F

道具補正:D

動作補正:D

総合脅威度:D-


急に上がった。


本人は弱いのに、道具を持った瞬間に危険度が二段階以上跳ねた。これはずるい。いや、ずるくはない。私も剣と牙で移動している。むしろ同じ系統だ。


本体が弱いなら、道具で補う。


足りないものを、外から足す。


人間も、私と同じことをしている。


ただし、あちらは完成度が高い。


私は腕に剣が刺さって抜けないだけ。人間は斧を握り、必要な時だけ振り、不要な時は下ろせる。固定されすぎていない。外せる。持ち替えられる。振る角度も選べる。


ずるい。


いや、技術だ。


ずるいと思う前に観察しろ。


人間はもう一度斧を振った。さっきと同じ位置ではない。少し角度を変え、前の傷と合わせるように刃を入れる。木片が飛んだ。傷が広がる。


一撃で切ろうとしていない。


何度も同じ場所を削り、形を作っている。


これは、牙削りに近い。だが、牙より効率がいい。斧の重さ、柄の長さ、腕の振り、足の踏ん張り。その全部で刃を木に入れている。


武器だけではない。


体の使い方も込みで、道具になっている。


私は自分の腕を少し動かした。折れた剣は刺さったまま。牙は側面仮装着。薄石は根元の支え。私にも道具はある。だが、使い方が雑だ。


剣は支点。

牙は削る。

薄石は沈み止め。


人間の斧は、一つの道具で切断、打撃、支点、重さ、間合いをまとめている。


複合機能。


強い。


「ふう」


人間が息を吐いた。


声だ。


私は反射的に動きを止めた。向こうはまだこちらに気づいていない。木を見ている。斧を見ている。自分の足場を見ている。次にどこを打つか、確認している。


作業前確認。


この人間、かなりまともな現場作業者である。


柔らかいのに。


悔しい。


人間は斧を振り上げ、もう一度打ち込んだ。木の幹が軋む。揺れる。根が土を引っ張る振動が、私の腕にも伝わった。


倒れる。


私はそう感じた。


人間も同じように感じたのだろう。すぐに斧を下ろし、木の傾きと逆方向へ走った。速い。判断が速い。逃げる足がある。羨ましい。いや、かなり羨ましい。


木が倒れた。


地面が揺れた。


私はその振動をまともに受け、薄石の仮支えを一つ落とした。


《石核ログ》

衝撃波を検知

仮支え:一部脱落

原因:地面振動

注意:大型物体の転倒範囲


それを先に言ってほしい。


いや、私も分かった。分かったが、逃げる手段がない。木の一本が倒れただけで、こちらの部品が外れる。人間は安全距離を取った。私は取れない。


移動性能の差。


かなり大きい。


人間は倒れた木に近づき、枝を払っていく。斧の使い方が変わった。今度は大きく振らない。短く、細かく、枝の根元に刃を入れる。同じ道具なのに、使い方で役割が変わる。


私はじっと観察した。


切る。

割る。

削る。

払う。

支える。

運ぶために短くする。


一本の木を倒して終わりではない。倒した後、扱える長さにする。運べる形にする。目的に合わせて分ける。


戦闘も同じかもしれない。


倒すだけでは足りない。


残す形にしなければ、素材にならない。


私は甲虫の牙を思い出した。倒した後、牙を取るのに苦労した。保管場所にも困った。使う角度にも困った。人間は、最初から「後で使う形」を考えて切っている。


弱いのではない。


準備している。


人間がふと顔を上げた。


こちらを見た、気がした。


私は動かなかった。いや、動けなかった。泥と土に半分埋まった、剣付き牙付き石腕である。動かなければ、ただの変な残骸に見える可能性がある。


見える可能性。


あるか?


人間は目を細めた。


私の方を見ている。


完全に見ている。


まずい。


私は剣を土に少しだけ沈めた。牙を隠す。腕の表面に泥を寄せる。動かない。石。私は石。ちょっと剣が刺さっていて、牙が生えている石。


無理がある。


「……なんだ、あれ」


人間が言った。


なんだろうな。


私も知りたい。


人間は斧を構えた。先ほど木を倒していた時とは違う構え。体の前に柄を置き、刃をこちらに向けている。攻撃というより、警戒。木ではなく、動くかもしれないものに向ける構え。


私は動かなかった。


動けば敵と判断される。

動かなければ見逃されるかもしれない。


だが、動かなければ逃げられない。


この二択、地味にひどい。


人間が一歩近づいた。


土が鳴る。足音が軽い。だが、斧の先だけは重い。私の硬度なら、あの刃で一撃とはいかないだろう。だが、何度も同じ場所を打たれれば削られる。木と同じだ。


私は木ではない。


木扱いは困る。


もう一歩。


人間が近づく。


《石核ログ》

対象:人間

警戒状態

推奨:非交戦

理由:道具補正/未知の集団性


集団性。


そうだ。


人間は一体では終わらない可能性がある。木こりが一人ならまだいい。だが、村があれば複数来る。斧だけではない。槍、弓、火、縄。私はすでに、縄の可能性をログから知っているわけではないが、なぜか嫌な予感がした。


今は戦わない。


観察だけでいい。


私は折れた剣を、ほんの少しだけ土の下へ押し込んだ。支点を作る。すぐに引けるようにする。人間が近づきすぎたら、泥の側へ戻る。遅いが、少しは動ける。


人間は、私から数歩の距離で止まった。


斧を握る手に力が入っている。


私はその手を感じた。柔らかい。細い。だが、柄を握ることで力が逃げない。足で地面を押し、腰で斧を支え、腕で角度を決める。


本体は弱い。


でも、手順が強い。


「魔物……か?」


違う、と言いたかった。


いや、違わないのかもしれない。ログはゴーレムと言っていた。ゴーレムが魔物なら、私は魔物だ。否定材料がない。


だが、今は木を切っている人間を襲うつもりはない。


観察中である。


現場見学中である。


私は無害な見学者です、と札を立てたい。


腕しかないので札を立てる手がない。私自身が腕だった。


人間は、しばらく私を見ていた。やがて、斧を少し下げた。完全に警戒を解いたわけではない。ただ、今すぐ打ち込む対象ではないと判断したのだろう。


よし。


非交戦、成功。


人間は倒した木の枝を一本拾い、私の近くへ投げた。


枝が転がる。


私の前で止まった。


試されている。


動くかどうか、見ているのか。あるいは、食べるかどうか。私は枝を食べない。食べられない。口がない。枝の処理方法に困る。


私は動かなかった。


人間はまたしばらく見て、ゆっくり後ろへ下がった。倒した木の一部を持ち、森の奥へ引いていく。何度もこちらを振り返ったが、近づいては来なかった。


助かった。


たぶん。


完全には助かっていない。目撃された。あの人間が村に戻れば、話が広がるかもしれない。剣の刺さった石腕がいた、と。牙が生えた変な石がいた、と。


噂。


これは新しい危険だ。


《石核ログ》

人間観察:完了

新規理解:道具補正

新規理解:手順補正

警告:目撃リスク


目撃リスク。


そう来たか。


敵に勝つより、見られない方が難しい場合もあるらしい。私は泥から出たばかりで、もう社会的な問題に接触している。社会が何かもまだ分からないのに。早い。展開が早い。


だが、収穫はあった。


人間は弱い。


しかし、道具を使うと強い。

手順を踏むと、さらに強い。

集まれば、もっと強い可能性がある。


私は、腕に刺さった折れた剣を意識した。


この剣は、ただ刺さっているだけではない。支点になる。足場になる。いずれは武器にもなるかもしれない。牙も同じだ。薄石も同じ。使い方次第で、ただの素材が道具になる。


人間と私の違いは、体の形ではない。


道具を選び、持ち替え、手順に組み込めるかどうかだ。


今の私は、まだ道具に振り回されている。


剣は抜けない。牙は邪魔になる。石は重い。泥は乾く。


だが、人間も最初から斧で木を倒せたわけではないはずだ。足場を選び、角度を見て、何度も同じ場所を削った。なら、私にもできる。


たぶん。


いや、やるしかない。


私は人間が落としていった細い枝に牙を当てた。軽く削る。木は石より柔らかい。簡単に傷がついた。だが、柔らかい分、力を入れると潰れる。切る角度が違う。


素材が違えば、扱いも違う。


これも覚える。


《第5話リザルト》


観察対象:人間の木こり

新規理解:道具補正

新規理解:手順補正

新規理解:素材ごとの扱い差

確認:人間本体は脆いが、道具使用時の危険度は高い

警告:目撃リスク発生

未解決:人間への対応/非交戦時の隠蔽/枝素材の使い道


人間。


本体は柔らかい。


でも道具を持つと強い。


手順を踏むともっと強い。


つまり、あれだ。


柔らかいのに現場力が高い。


ずるい。


かなりずるい。


でも参考になる。


《石核ログ》

人間評価:弱そうで強い


そのまま言った。


いや、分かりやすいけど。


もう少しこう、分類名として整えてほしい。軟体高補正生高物とか、道具依存型強者とか。


《石核ログ》

名称変更権限:なし


またない。


私は牙付き石腕で、人間は弱そうで強い。


このログ、命名のセンスは信用できない。


ただ、判断は正しい。


私は折れた剣を土に刺した。


人間が消えた森の奥を、しばらく意識する。


あの柔らかい生き物は、きっとまた来る。あるいは、別の人間を連れてくる。その時、私はただの石でいるべきか。魔物として逃げるべきか。それとも、道具を使う生き物からもっと学ぶべきか。


答えはまだない。


だからもっと学、今は進む。


剣を支点に。

牙を工具に。

石を支えに。

泥を接着剤に。


弱そうで強いものを見た。


なら、私もそうなればいい。


見た目は、すでに弱そうかどうか怪しいが。

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