第3話 初戦、岩噛み甲虫
泥の向こうで、硬い顎の音がした。
かり、かり、と何かが地面を噛んでいる。音は小さい。だが、振動ははっきりしていた。泥の下の硬い層を伝って、私の腕にじわじわ近づいてくる。
視覚器官はない。
発声器官もない。
脚もない。
逃げる速度もない。
つまり、現在の私にできることは、待つことと、剣を向けることだけだった。
かなり少ない。
現場で使える手札が二枚しかない時点で、責任者を呼びたい。責任者が私だった。解散。
《石核ログ》
接近対象:小型魔物
推定質量:1未満
脅威度:F+
F+。
微妙に上がっている。
こちらがFだとしたら、相手はF+。ほぼ同格。いや、向こうはたぶん全身がある。こちらは腕だけである。競技条件が違う。腕だけ部門なら私も善戦しているが、そんな部門はない。
泥が盛り上がった。
そこから、黒く硬いものが出てきた。甲虫だった。大人の拳ほどの大きさ。背中は石のようにごつごつしていて、頭には短い牙が二本ある。牙というより、石を噛み割るための工具に近い。
なるほど。
あれで地面を噛んでいたのか。
《対象解析》
名称:岩噛み甲虫
硬度:D
速度:E
攻撃:噛み砕き
弱点:不明
弱点、不明。
そこを知りたい。
解析という名前で出てきておいて、肝心なところを伏せるのはどうなのか。いや、ログも万能ではない。情報は現場で取れということだろう。冷たいが正しい。
甲虫がこちらを向いた。
目が合った。
いや、私は目がない。向こうにも小さい目らしきものはあるが、泥まみれでよく分からない。なのに、向かい合った感じだけは分かった。
敵意。
食欲。
あるいは、ただの作業対象。
甲虫にとって、私は石かもしれない。泥に埋まった、少し動く石。噛めば削れる石。つまり餌、もしくは障害物である。
どちらにしても、扱いが雑だ。
甲虫が飛びかかってきた。
私は折れた剣を前へ出した。昨日覚えた剣歩きの要領で、泥の下の硬い層に剣先を当てる。そのまま支点にして、腕を少しだけ持ち上げる。
迎撃。
の、つもりだった。
甲虫は剣の腹にぶつかり、かつん、と乾いた音を立てて弾かれた。だが、切れていない。刃が当たっていない。角度が悪い。剣を持つ手も、剣を振る肩も、踏ん張る足もない。支点にしていた剣を、そのまま武器にしようとしたのが間違いだった。
剣は足場。
まだ武器ではない。
甲虫は泥の上で一度ひっくり返り、すぐに起き上がった。早い。硬い。小さい。嫌な現場である。
次の瞬間、甲虫が私の腕に噛みついた。
ごりっ。
石が削れた。
痛みはない。
だが、分かる。
持っていかれた。
《石核ログ》
右腕表面:削損 4%
硬度差:不利
固定力:低下
待て。
初撃で四%。
腕一本しかない私から四%。
人間で言えば、家の壁をいきなり一枚持っていかれたようなものではないか。いや、人間の体に壁はない。たとえが悪い。でも許されないのは確かだ。
甲虫は噛み取った石を、ばりばりと砕いた。
食べている。
私を。
正確には私の表面素材を。
なんだその無許可解体。工事申請を出せ。いや出されても許可しない。ここは私有地だ。私が私有地だ。権利関係が混乱している。
私は腕を振った。
甲虫が離れる。泥の上を転がる。今度こそ剣を当てようと、折れた刃を横から押し込む。だが、甲虫の背中に当たった剣は滑った。
硬い。
丸い。
刃が立たない。
《石核ログ》
刃角制御:不足
正面装甲への切断:非推奨
知ってから言うな。
いや、言ってくれるだけましか。非推奨。つまり、やるなということだ。背中は硬い。牙も硬い。正面から削り合えば、先に私の腕が減る。
では、どこを狙うか。
甲虫が再び近づく。泥をかき分ける脚が動く。硬い背中。硬い頭。硬い牙。だが、全部が硬いわけではない。動く以上、どこかに継ぎ目がある。
背中と腹。
頭と胸。
脚の付け根。
硬いものは、分かれているから動く。
分かれているなら、隙間がある。
私は剣を構え直した。構え直したと言っても、腕の角度を少し変えただけだ。大きく振らない。刺さない。甲虫が来る場所に、刃を置く。
刃を振るのではなく、置く。
甲虫は一直線に来た。
さっき私を削れたことで、正面から来れば勝てると思ったのだろう。まあ、間違ってはいない。普通にやれば私が負ける。腕だけの石と、全身甲虫。生物としての完成度が違う。
だが、完成度が高いものほど、構造がある。
構造があるものには、継ぎ目がある。
私は剣先を泥の下の硬い層に固定し、刃をわずかに立てた。甲虫の牙が剣の腹に当たる。そこで受けない。少しずらす。牙を滑らせる。
甲虫の体が、斜めに流れた。
腹が見えた。
そこへ、折れた刃の欠けた先が入った。
ぐしゃり、ではない。
ばきり、でもない。
ぷつ、と薄い膜が切れるような感触だった。
甲虫が暴れた。脚が泥を掻く。牙が私の腕を探す。私は剣を抜かない。抜けば逃げられる。刺したまま、泥の下の硬い層に押しつける。
支点。
固定。
重さ。
私が持っているものは少ない。だが、少ないなら少ないなりに使うしかない。
甲虫の動きが弱まった。
泥の上で、硬い脚が何度か震えた。やがて、動かなくなった。
《戦闘結果》
岩噛み甲虫:撃破
右腕表面:削損 8%
獲得可能素材:甲虫牙×2/硬殻片×1
新規理解:硬い敵は、割るより継ぎ目を狙う
勝った。
たぶん。
腕は削られた。剣は泥まみれ。薄石の仮支えは半分外れている。移動効率も落ちている。勝利というより、赤字工事の完了に近い。
だが、完了は完了である。
私は甲虫の死骸に近づいた。近づくと言っても、剣を刺して、引いて、泥をずりずり進むだけだ。途中で甲虫の脚が腕に当たり、硬い音を立てた。
硬い。
小さいくせに、硬い。
私の腕を削った牙は、泥の中でも形を保っていた。黒く、短く、鋭い。剣とは違う。切るためではなく、噛み砕くための形だ。
これは使える。
そう思った瞬間、ログが動いた。
《素材解析》
甲虫牙
機能:削る
必要技能:角度/固定
注意:装着不良時、可動性低下
注意が早い。
もう罠の気配を出している。
だが、分かる。今の私には固定力がない。剣ですら抜けないだけで使えているだけだ。牙を付けたところで、正しい角度で固定できなければ、ただの邪魔な突起になる。
それでも、欲しい。
私を削ったものだ。
私より硬い部分があるということだ。
なら、残す。
私は甲虫の牙を指の突起で掴んだ。簡単には外れない。頭の殻にしっかり埋まっている。これも固定である。小さな魔物の方が、私よりまともな接合作業をしている。
悔しい。
甲虫に施工精度で負けている。
かなり悔しい。
私は折れた剣を牙の根元に当てた。切るのではない。こじる。支点を作り、薄く捻る。最初は動かなかったが、何度か角度を変えると、牙の根元がぱきりと割れた。
一本目。
もう一本。
こちらは少し欠けた。もったいない。だが、取れた。
《素材取得》
甲虫牙×2
硬殻片×1
保管方法:未設定
保管方法。
そうだった。
私には袋がない。背負う背中もない。口もない。飲み込む胃もない。腕一本が全財産の私に、素材を持ち運ぶ機能などあるはずがなかった。
私は牙を握った。
剣歩きができない。
牙を離す。
素材を持てない。
この世界、私に対して厳しすぎないか。
冷静に考えれば当然である。腕一本で、剣を支点に移動している。片手で荷物を持ったら移動できない。片手というか、全身である。全身が荷物を持っている。そりゃ動けない。
では、どうするか。
一時保管。
泥の中に埋める。
私は、甲虫の死骸の横に泥を掻いた。牙を二本、硬殻片を一枚、その中に置く。上から薄く泥をかぶせる。位置は、硬い層の切れ目。剣を刺せば分かる場所。
簡易素材置き場。
名称は地味だが、実用である。
《石核ログ》
仮置き場:設定
素材保管:低安定
注意:他個体による回収リスクあり
回収リスク。
つまり盗まれる。
私の初素材が。
許しがたい。
しかし、持てないものは仕方ない。まずは移動。次に固定。素材を使うのは、その後だ。
私は自分の腕を確認した。表面は削れている。泥が入り込んでいる。甲虫の牙跡が残っている。そこだけ、少しざらついていた。
負けた痕跡。
同時に、学んだ痕跡。
硬いものには継ぎ目がある。
正面から割れないなら、横へ流す。
刃は振らなくても使える。
敵の強い部分は、素材になる。
私は、泥の中で折れた剣を刺した。
甲虫の牙は、すぐそこにある。
今はまだ使えない。持てない。固定もできない。
だが、場所は覚えた。
次は、あれを私の一部にする。
《第3話リザルト》
撃破:岩噛み甲虫
損傷:右腕表面 8%削損
獲得素材:甲虫牙×2/硬殻片×1
新規理解:硬い敵は継ぎ目を狙う
新規機能:仮置き場
未解決:素材の携行方法/牙の固定方法/削損部の補修
私は勝った。
勝ったが、八%削られた。
つまり、今の私があと十二回くらい同じ勝ち方をすると、たぶん私がなくなる。
勝利条件、見直しが必要である。




