第15話 村の外に素材を置く
油の処理は、思ったより長引いた。
火は消した。棘枝の燃えた部分も泥で覆った。縄も無事だった。盾片もまだ使える。だが、油が面倒だった。牙の根元に入り、盾片の裏に回り、泥の接合部に染みる。
ぬるり、と滑る。
剣を刺す。滑る。
牙を当てる。滑る。
盾片で支える。滑る。
油、かなり嫌いだ。
《石核ログ》
油汚れ:残留
可動効率:低下
推奨:湿泥による拭浄後、水洗
拭浄。
急に言葉がきれいになった。
やることは泥で拭くである。泥で汚れを落とす。落とした後に水で流す。水で流しすぎると接合泥も落ちる。つまり、洗うにも順番がいる。
私は湿った泥を盾片で寄せ、油のついた部分にこすりつけた。次に水路の端で、ほんの少しだけ流す。洗いすぎない。油を水路に流しすぎない。泥接合を崩しすぎない。
作業として地味。
しかし、失敗すると燃える。
火を知った後だと、地味な作業にも重みがある。油のついた縄など、ただの燃える罠である。自分の装備で自分を燃やす未来は遠慮したい。
しばらくすると、牙の根元の滑りが減った。盾片も土を噛むようになった。棘枝は短くなったが、残った部分は使える。焦げたところは脆いので、先端だけ少し削って整える。
焦げ棘。
名前は少し強そうだ。
実物は半分燃えた枝である。
そこは見ないことにする。
《石核ログ》
棘枝:補修完了
接近阻害:低下
焦げ部:脆弱
注意:再燃焼リスク
再燃焼リスク。
名前だけ強そうだったのに、注意も強い。
私は棘枝を畳み、硬層道へ戻った。盗賊たちは戻ってくるかもしれない。油と火を使う相手は危険だ。今の私は燃えない石ではなく、燃える部品を大量に抱えた未完成構造体である。
構造体。
そういえば、ログはそう呼んだ。
未完成構造体。
気に入っている。
少なくとも、牙付き石腕よりはましだ。
私は村の方へ近づきすぎないよう、道脇の斜線記号を避けて進んだ。人間遭遇注意。あの記号は正しい。人間は木を切る。剣を抜こうとする。油を撒く。鉄を叩く。個体差が大きすぎる。
近づくなら、観察。
触らせない。
燃やさせない。
これが現在の人間対応である。
その時、硬層道の先で、土が荒れていることに気づいた。
足跡。
人間ではない。もっと爪が深い。狼より重い。甲虫のような細かい跡でもない。地面を掘り返しながら進んでいる。道脇の小石が散り、根が削れ、泥がえぐれていた。
何かが通った。
しかも、村の方へ。
《地形記録》
異常:硬層道の損傷
足跡:大型魔物
進行方向:村外縁
村外縁。
嫌な表示である。
村そのものに興味はない。いや、少しある。木こりがいる。鍛冶師ガレンがいる。盗賊とは違う人間もいる。人間は危険だが、有用でもある。
それに、村の近くには道がある。素材が落ちる。鍛冶場もある。
村が壊れると、私の周辺環境も悪くなる。
つまり、村は私の所有物ではないが、壊れると困る外部設備である。
かなり身勝手な評価だ。
だが、正直である。
私は足跡を追った。追う、といっても、剣歩きなので遅い。足跡は村へ向かっている。焦る。だが急ぐと部材が外れる。急げない。非常にもどかしい。
やがて、低い唸りが聞こえた。
灰噛み狼ではない。
もっと重い。鼻息が荒い。地面を掘る音がする。
茂みの向こうにいたのは、猪のような魔物だった。
黒い体。低い姿勢。鼻先に硬い板のような骨。左右に短い牙。背中には泥が固まって鎧のようになっている。村の柵らしき木組みに鼻を押しつけ、ばきばきと折っていた。
《対象解析》
名称:泥鎧猪
硬度:D
質量:D
速度:短距離C
攻撃:突進/掘削
脅威度:D+
D+。
高い。
しかも質量がある。
狼の体当たりで私は飛んだ。あれより重い相手に突進されたら、盾片ごとどこかへ運ばれる可能性が高い。防御が移動になるどころではない。配送される。
配送先はたぶん地面の下だ。
嫌すぎる。
泥鎧猪は村の外柵を壊していた。柵の向こうから、人間の声が聞こえる。
「魔猪だ!」
「槍を持ってこい!」
「火は使うな、柵に移る!」
人間が慌てている。
火を使わない判断は正しい。柵と草がある。燃えたら広がる。私は昨日学んだ。人間も知っている。やはり道具を使う生き物は侮れない。
だが、今の村人たちは押されていた。
槍を持った人間が二人、柵の内側から突く。泥鎧猪は下がらない。鼻先の骨板で槍を受け、体重で押す。人間は柔らかい。押されると後ろへ下がる。足場が崩れれば転ぶ。
本体は弱い。
道具と手順で強くなる。
だが、準備が足りないと重さに負ける。
私は泥鎧猪の側面を観察した。
背中の泥鎧は硬い。鼻先の骨板も硬い。正面からは無理。甲虫と同じだ。硬いものには継ぎ目がある。猪なら脚の付け根、腹、泥鎧の割れ目。
問題は、近づくと轢かれること。
私は周囲の地形を確認した。
硬層道がある。
水路がある。
村の外柵がある。
柵の下に湿った泥がある。
落ちている縄くずがある。
折れた杭もある。
使える。
全部、私の体ではない。
だが、使える。
私は水路の縁に向かった。泥鎧猪は柵を押している。こちらには気づいていない。私は牙で水路の縁を削り、湿った泥を猪の足元へ流れるようにした。
水路は敵にも味方にもなる。
今回は敵の足場を崩す。
水がじわりと流れ、柵の下の土を柔らかくする。泥鎧猪の前足が沈む。ほんの少し。だが、重い相手ほど、足場の変化に弱い。
泥鎧猪が一歩踏み込んだ。
前足が滑った。
村人の槍が、鼻先ではなく肩の下へ入った。浅い。だが、猪が嫌がって首を振る。その瞬間、私は折れた縄を柵の根元にかけた。
短い縄。
相手を縛るには足りない。
だが、進む方向を少し変えるには使える。
私は縄を泥鎧猪の後ろ足近くの杭へ引っかけた。完全な罠ではない。雑だ。かなり雑だ。だが、猪は村人に気を取られている。
猪が後ろ足を引いた。
縄が足に触れた。
絡む。
完全ではない。
だが、一瞬だけ遅れた。
私は棘枝を立てた。焦げた棘。短く、脆い。だが、猪の足元に触れれば嫌がらせにはなる。棘を足首のあたりへ向ける。
泥鎧猪が暴れた。
後ろ足が棘に触れ、跳ねる。
その動きで、前足がさらに泥に沈んだ。
姿勢が崩れる。
今だ。
私は剣を硬層に刺し、盾片を支持板にして、牙を泥鎧の割れ目へ押し込んだ。背中ではない。脚の付け根の泥鎧が割れている部分。牙で削る。剣で支える。押し込まず、引く。
泥鎧が剥がれた。
そこへ、村人の槍が入った。
泥鎧猪が大きく鳴いた。突進しようとするが、足元は水で緩み、縄が絡み、棘が当たり、槍が肩に入っている。力はある。だが、力の通り道が崩れている。
ガレンの言葉を思い出す。
芯が死んでいる。
今、猪の芯を殺している。
なんだか物騒な理解である。
泥鎧猪は柵へ突っ込む代わりに、横へ逃げた。水路の縁を踏み抜き、泥を散らし、森の方へ走っていく。追う必要はない。目的は村に入らせないことだ。
泥鎧猪は去った。
村人たちはしばらく叫んでいた。
「逃げたぞ!」
「槍が入った!」
「なんで足元が崩れた?」
「今、外に何かいなかったか?」
まずい。
私はすぐに棘を畳み、剣を引いた。柵の外、草の陰へ移動する。泥に半分沈み、盾片を寝かせる。動かない。石。私は石。今回は油も火もないので、石のふりに集中できる。
村人の一人が柵の外を覗いた。
木こりだった。
以前出会った斧の人間だ。彼は周囲を見回し、水路の崩れた跡、猪の剥がれた泥鎧、柵の根元に残った縄片を見た。
そして、私が隠れた草の方を見た。
気づいたかもしれない。
私は動かなかった。
木こりはしばらく黙っていた。
やがて、猪が落としていった泥鎧の破片を拾った。硬い。だが、割れ目がある。人間にとっても素材になるかもしれない。
私は考えた。
あれは使える。
泥鎧片は、防御材になる。
猪の短牙もある。
硬い鼻先の骨板も、うまく取れれば盾片より強い。
だが、私は持てない。
全部持てない。
持とうとすれば動けない。前に小石で学んだ。素材は力だが、荷物でもある。
では、どうするか。
村に置く。
人間は素材を使える。ガレンは加工できる。村が素材を使えば、柵を直せるかもしれない。柵が直れば、村は残る。村が残れば、鍛冶場も道も残る。
私にも利益がある。
善意ではない。
外部設備の保守である。
たぶん。
私は草の陰から、猪が落とした泥鎧片を牙で押した。水路の泥を使い、少しずつ村の外柵の前へ寄せる。人間が見ていない隙に、短牙の一本も同じ場所へ押す。
大きな骨板は無理だった。
重すぎる。
あれは保留。
無理なものは持たない。小石の時に学んだ。
私は泥鎧片と短牙を、村の外に置いた。
柵の外。
人間が見つけやすい場所。
だが、私が近づきすぎない場所。
「おい、これ……」
村人が気づいた。
「魔猪の牙だ」
「誰が置いた?」
「さっきの石のやつじゃないのか」
「石のやつ?」
木こりが低い声で言った。
「前に森で見た。剣の刺さった、変な石だ」
変な石。
また分類が雑である。
だが、魔剣よりはましかもしれない。剣だけが本体扱いされるより、石として認識される方がまだ近い。
「魔物なのか?」
「でも、村を助けたんじゃ……」
「罠かもしれん」
「素材を置いていったぞ」
声が増えていく。
人間側に、噂が生まれている。
これは危険だ。
同時に、有用かもしれない。
討伐対象になるかもしれない。
だが、素材を置く存在として見られるかもしれない。
魔物か、道具か、山の何かか。
分類が揺れる。
分類が揺れる間は、即攻撃されにくい。
たぶん。
私は草の陰で、ゆっくり後退した。剣を刺す。盾片で支える。牙を寝かせる。棘は畳む。縄は回収する。村人たちは素材に気を取られている。
今のうちに離れる。
人間に近づきすぎない。
だが、完全には離れない。
村外に素材を置く。
反応を見る。
これも観察だ。
そして、もしかすると施工でもある。
村という外部器官の、最初の仮接続。
言い方が大げさすぎる気もする。
だが、村が素材を使えば、私では作れないものが作られるかもしれない。ガレンの鍛冶場へ素材が行くかもしれない。壊れた道具がまた道脇に落ちるかもしれない。
素材は、私の体に付けるだけではない。
外へ置いても、何かを変える。
《石核ログ》
外部供給:実行
供給先:村外縁
素材:泥鎧片/短牙
反応:人間集団の認知上昇
警告:噂発生
噂発生。
嫌な言葉である。
だが、今回は逃げるだけではない。
私が置いた。
私が選んだ。
持てない素材を、外に使わせる。
それも、使い方の一つだ。
《第15話リザルト》
遭遇:泥鎧猪
戦闘結果:村外縁から退避させた
使用:水路/縄/棘/牙/盾片
取得候補:泥鎧片/短牙/鼻骨板
外部供給:泥鎧片/短牙を村外へ設置
新規理解:素材は自分に付けるだけではない
発生:人間側の噂
未解決:村との距離/素材供給の危険/鼻骨板の回収
村の外に、素材を置いた。
感謝されたいわけではない。
ただ、持てなかった。
……いや、少しだけ、反応は気になる。




