第14話 油の匂い
棘枝を畳む、という考え方は正しかった。
少なくとも、森の中でいちいち枝に引っかかって停止する回数は減った。ゼロではない。減っただけだ。そこは大事である。現場改善とは、急に完璧になることではない。事故の回数を一つずつ減らすことだ。
私は硬層道を進みながら、棘枝の角度を確認していた。
移動時は寝かせる。
敵が近い時だけ立てる。
枝が多い場所では、さらに低くする。
こうして書くと簡単そうだが、実際は腕一本である。剣を刺し、牙を寝かせ、盾片を支えにし、縄を絡めず、棘を畳む。操作項目が多い。
そのうち、私の中に「操作確認表」が必要になるかもしれない。
《石核ログ》
装備干渉:軽微
棘枝固定率:20%
移動効率:安定
安定。
いい言葉だ。
このログから安定と言われる日が来るとは思わなかった。いや、まだ低水準での安定だ。倒壊寸前の小屋が、とりあえず今朝は倒れていない、くらいの安定である。
それでも進歩である。
私は硬層道の記号を確かめながら、道脇へ近づいた。斜線。人間遭遇注意。ここは危険だが、素材が落ちる。車輪跡から小石も出るし、縄くずや釘も拾えるかもしれない。
少しだけ確認して戻る。
そう決めて、剣を土に刺した。
その瞬間、妙な感触があった。
硬層に剣が当たったのに、滑った。
水ではない。水なら冷たく流れる。これはもっと重い。ぬるりとして、土に染み込み、剣の腹にまとわりつく。
私は剣を引いた。
刃に黒っぽい液体がついている。
《物質解析》
対象:不明油性液体
粘度:中
滑り:高
燃焼性:推定高
注意:火気厳禁
火気厳禁。
非常に嫌な言葉が出た。
私は火を見たことがある。ガレンの炉だ。鍛冶場の奥で赤く揺れ、鉄を柔らかくするもの。遠くからでも熱が伝わり、空気が歪む。便利で危険な、あれである。
その火と、この油が関係する。
よくない。
かなりよくない。
私はすぐに後退しようとした。剣を別の場所に刺す。だが、また滑る。盾片も滑る。牙も土に噛まない。足場に油が染みている。
これは、地面を弱くする罠だ。
いや、弱くするだけではない。
燃える。
《石核ログ》
移動効率:低下
原因:油膜
推奨:離脱
離脱したい。
とてもしたい。
だが、滑る。
硬層道は私の味方だった。剣が刺さり、盾片が支え、牙が削れるから道だった。そこに油を撒かれると、全部が空振りする。硬い層があるのに、使えない。
硬いだけではだめ。
また新しい嫌な現実である。
「いたぞ」
声がした。
人間。
しかも、聞き覚えがある。盗賊の声だ。前に私の剣を抜こうとした、あの雑な足音の一人。
いや、今はそれどころではない。
茂みの向こうから、盗賊が二人現れた。片方は縄。片方は短い槍。そして、もう一人。前にはいなかった男が、手に小さな壺を持っている。
壺の口から、黒い液体が垂れていた。
油。
あれを撒いたのか。
「本当に動くんだな、こいつ」
「だから言ったろ。魔剣が刺さった石の魔物だ」
魔剣ではない。
私だ。
何度言えば、いや、一度も言えていない。発声器官がない。つらい。非常につらい。こちらの主張が一切通らない。
盗賊の一人が、火のついた細い枝を持ち上げた。
私は動きを止めた。
火。
小さい。
ガレンの炉に比べれば、比べものにならないほど小さい。だが、今の地面には油がある。私の縄にも、棘枝にも、泥の隙間にも、少し油がついている。
小さい火でも、十分まずい。
《対象解析》
対象:盗賊×3
所持:縄/槍/油壺/火種
総合脅威度:C
警告:燃焼連鎖の危険
C。
鍛冶師ガレンと同じ帯域。
いや、鍛冶師は危険でも有用だった。こいつらは危険で迷惑である。分類が悪化している。
「燃やせば剣だけ残るんじゃねえか?」
待て。
その発想はおかしい。
剣だけ残すな。
私は剣ではない。剣も大事だが、本体ごと残してほしい。いや、盗賊に残してもらう筋合いもない。そもそも燃やすな。
私は剣を硬層へ刺した。
滑る。
盾片を押し当てる。
滑る。
牙を立てる。
油の染みた土を削るだけで、支点にならない。
まずい。
正面から戦う以前に、動けない。
盗賊が火種を近づける。
私の石は燃えない。たぶん。硬度はある。熱にどこまで耐えられるかは不明だが、石そのものが即座に燃えるわけではない。
だが、泥は乾く。
縄は燃える。
棘枝は燃える。
油が隙間に入れば、接合部が熱で割れる。
硬いから安全ではない。
火は、硬さでは受けられない。
私は盾片を油の濃い場所に押しつけた。滑るが、盾片の縁で油を少し押せる。水を逸らした時と同じだ。止めるのではなく、流す。
油も流体だ。
水より重く、しつこく、性格が悪いが、流れるものではある。
私は盾片を斜めに使い、油を横へ押した。牙で土を浅く削り、油が逃げる溝を作る。油を自分から離す。完全には無理だが、濃い部分だけでもずらす。
《石核ログ》
油膜誘導:部分成功
新規理解:油は滑り、燃える
注意:水路への流入危険
水路への流入危険。
そうか。
近くには水路がある。油がそこへ行けば、水に乗って広がる。便利だった水路が、燃える道になるかもしれない。
最悪だ。
水路まで敵に回すな。
私は油を水路とは逆方向へ逃がすように、盾片で押した。盗賊たちはその動きに気づいたらしい。
「こいつ、油を避けてるぞ!」
「なら先に火だ!」
火種が投げられた。
私は棘枝を反射的に立てた。
枝に火種が触れた。
一瞬で、棘の先が燃えた。
《石核ログ》
棘枝:燃焼
固定泥:乾燥急進
警告:接合破断
熱い、とは感じない。
だが、分かる。
乾く。割れる。縮む。泥が剥がれ、棘枝の根元が鳴る。ぱき、と嫌な音がした。
棘が敵を近づけない?
違う。
火に近づけると、棘が燃える。
当たり前だ。
当たり前だが、やってしまった。
私はすぐに棘枝を外そうとした。固定率は低い。なら外れるはず。だが、油で滑るせいで角度が決まらない。火が棘から縄へ移りそうになる。
それだけはまずい。
縄は燃える。
縄が燃えたら、引き寄せ支点を失う。
私は緊急分離を実行した。
《石核ログ》
緊急分離:実行
対象:棘枝外層/燃焼部
損失:棘枝 40%
燃えている部分を、泥ごと捨てる。
棘枝が落ちた。火のついた棘が地面の油に触れ、小さく炎が走る。私は盾片で油を押し、燃え広がる先を水路から逸らした。
盗賊が笑った。
「効いてるぞ!」
効いている。
非常に効いている。
本体が燃えていないから平気、ではない。部材がやられる。固定が割れる。油で滑る。火で乾く。水路に回れば逃げ場が燃える。
火は、硬さを無視して現場を壊す。
私は剣を硬層ではなく、油の少ない土へ刺した。深く。動くためではない。火の方向を変えるために、土を掘る。牙で浅い溝を作り、盾片で土を押す。
火を消すのではない。
燃えるものを切る。
油の筋を断つ。
盗賊がまた油を撒いた。黒い液体が土に広がる。私はすぐに盾片で押し返す。狼の体当たりより、ずっと静かで、ずっと嫌な敵だった。
「押してるぞ、あの石!」
石ではない。
いや、石ではある。
だが今はそれどころではない。
私は水路の波線記号を意識した。近い。水がある。水は油を洗うかもしれない。だが、油は水の上に広がる。燃えれば水路が火の道になる。
なら、水そのものではなく、湿った泥を使う。
私は水路の縁を牙で崩し、湿った泥を盾片で押し寄せた。油の上に、泥を被せる。濡れた泥は燃えにくい。油を完全には消せないが、広がりを遅くできる。
《石核ログ》
湿泥被覆:有効
燃焼拡大:低下
新規理解:火は硬度ではなく燃料を断つ
火は燃料を断つ。
なるほど。
硬い盾で受けるものではない。強い牙で倒すものでもない。火は、燃えるものがなければ進めない。なら、油を切る。棘を捨てる。縄を離す。湿った泥を被せる。
火との戦いは、殴り合いではない。
現場封鎖だ。
私は油の筋を泥で分断しながら、少しずつ後退した。剣を刺し、盾片で押し、牙で溝を作る。盗賊たちは近づいてこない。火があるからだ。私も近づけないが、向こうも近づけない。
火は敵にも味方にもなる。
水路と同じだ。
ただし、こちらの扱いはまだかなり下手である。
盗賊の一人が舌打ちした。
「くそ、燃え切らねえ!」
「油が足りねえ。戻るぞ」
戻る。
つまり、また来る。
やめてほしい。
盗賊たちは燃え残りをそのままに、森の奥へ下がっていった。追えない。追う必要もない。今は燃焼部の処理が先だ。
私は湿った泥を押し、火の残った棘枝を覆った。じゅ、と小さな音がした。煙が出る。泥接合の乾いた部分を、水路の湿り気で補修する。縄は無事だった。盾片は油で汚れている。牙の根元にも油が入った。
洗浄が必要。
だが、水路にそのまま入れると油が広がる。
先に泥で拭う。
手順が増えた。
火と油、面倒くさい。
かなり面倒くさい。
しかし、学びはあった。
硬度では防げない危険がある。
燃える部材は、強くても弱点になる。
油は足場を殺し、火の道を作る。
湿った泥は、防火に使える。
水路へ流すと、危険が広がる。
私は燃えた棘枝の残りを見た。
半分ほど失った。接近阻害は落ちるだろう。だが、完全にはなくなっていない。残った部分は黒く焦げ、少し硬くなっている。脆いかもしれない。だが、火を受けた部分の挙動は覚えた。
これも素材経験だ。
嬉しくはない。
本当に嬉しくはない。
《第14話リザルト》
遭遇:盗賊×3
確認物質:油
確認危険:火
損失:棘枝 40%
新規理解:硬度では火を防げない
新規機能:湿泥被覆
確認用途:油膜誘導/燃料分断/防火泥
未解決:油汚れの洗浄/棘枝の補修/盗賊の再襲来
火は怖い。
石だから平気、ではない。
私の体は石だけでできていない。
泥と縄と枝と、仮止めでできている。
……燃える部品、多くないか。




