第75話 静寂を破る拍手
白亜の大聖堂を包み込んでいた阿鼻叫喚は、嘘のように鳴りを潜めていた。
無限の再生を誇った魔族オオモリの肉体は、【煉獄の腕輪】が生み出した地獄の業火と、小山内誠一による慈悲なき斬撃の前に限界を迎え、文字通り灰燼に帰した。
美しい石畳の床には、彼が最期にそこでのたうち回っていたことを示す、生々しい黒焦げの跡だけが斑状に残されている。
「……終わった、か」
誠一は『白兎牙』と『黒牛角』の刀身に付着した汚れを軽く振り払い、静かに二振りの愛刀を鞘へと納めた。
その落ち着いた動作に合わせて、大聖堂に重い静寂が降りてくる。
周囲を見渡せば、神殿長マルセルの聖女断罪に同調していた高位の聖職者たちの多くは、オオモリが召喚したミラージュゴーストの群れに精神を破壊され、泡を吹いて倒れ伏していた。
しかし、全員が全滅したわけではない。
「はぁっ……はぁっ……、神よ、感謝いたします……!」
「なんとか、生き延びることができた……」
大聖堂の隅で、数人の司祭たちが膝をつき、荒い息を吐いていた。
マルセルの招集に応じてこの場に居合わせたが、彼らは権力に溺れず、純粋に神に仕え続けてきた者たちだ。
彼ら自身が持つ高度な癒しの魔法と神聖魔法を盾にすることで、怨霊の群れから己の身を護り抜いたのである。
「皆さん、ご無事ですか!」
エルマが【福音の結界】を解き、疲弊した司祭たちへ向けて駆け出そうとした。
彼女の背後では、神代静が杖を下ろし、ギルベルトとラッドも安堵の表情でへたり込んでいる。
凄惨な死闘を乗り越え、ようやく訪れた勝利の余韻。
誰もが、これで狂った大聖堂の惨劇に幕が下りたのだと信じて疑わなかった。
――パチパチパチパチパチ。
突如として。
その血生臭くも厳粛な静寂を切り裂くように、場違いなほど軽快で、無邪気な拍手の音が大聖堂の空間に響き渡った。
* * *
「「「……え?」」」
ラッドが間の抜けた声を漏らし、生き残った司祭たちが一斉に音のした方へと視線を向ける。
大聖堂の最奥。
先ほどまで首なしのマルセルが転がっていた、一段高い説教台の上。
いつの間にか、そこには一人の子供が座っていた。
年齢は十歳にも満たないように見える、小さな男の子だった。
上質な漆黒の衣服を身に纏い、真っ白な肌と、夜闇を切り取ったかのように深い黒髪を持っている。
彼は説教台の縁に腰掛け、短い両足をブラブラと無邪気に揺らしながら、誠一たちへ向けて楽しげに拍手を送っていた。
「……ッ!!」
大聖堂の全員が、突然現れたその存在に驚愕して固まる中。
誠一だけは、拍手の音が鳴った瞬間に極限の臨戦態勢へと回帰していた。
納めたばかりの白兎牙の柄に手をかけ、重心を落とし、いつでも神速の抜刀を放てる体勢を維持している。その眼光は、先ほどオオモリを細切れにした時よりも遥かに鋭く、冷徹に研ぎ澄まされていた。
(なんだ、この異常な気配は……)
誠一の背筋を、冷たい汗が伝う。
視覚情報だけならば、ただの愛らしい子供に過ぎない。
魔力や殺気といった分かりやすい威圧感も、一切周囲に放出されていない。
だが、生死の境界線を幾度も越えてきた誠一の『直感』が、けたたましい最大級の警鐘を鳴らし続けていた。
目の前にいるのは、圧倒的な『死』そのもの。
存在の格が、先ほどの魔族とは次元が違う。
(……下手に動くのは危険か)
誠一の親指が、鯉口を僅かに押し開く。
踏み込んで首を刎ねることは、一瞬でできる。
だが、この底知れぬ存在を相手に、一撃必殺が通じる保証はどこにもない。
もし自分の攻撃が引き金となり、規格外の広範囲反撃が返ってきたらどうなるか。
神代静やラッドたちは、エルマが再び結界を張れば守り切れるかもしれない。
しかし、結界の外で疲弊しきっている生き残りの司祭たちは、間違いなく余波だけで消し飛んでしまうだろう。
(無暗に仕掛けて、場を乱すべきはないな……)
誠一が微動だにせず、鋭い視線で隙を窺っていると、説教台の上の子供は拍手をやめ、にっこりと無邪気な笑みを浮かべた。
「いやあ、素晴らしい戦いだったよ! あんなに容赦なくオオモリを解体するなんて、見ていてすっごくワクワクしちゃった」
鈴を転がすような、高く澄んだ少年の声。
しかし、その言葉の内容は、周囲の空気を芯から凍らせるほど冷酷だった。
「オオモリはね、多少雑に扱っても勝手に治るから、とっても使い勝手のいい人形だったんだ。こんなにあっさり壊されてしまったのは残念だけど……まあ、相手が悪かったから仕方ないかな」
「……人形、だと?」
ギルベルトが戦慄したように呟く。
あの絶対的な再生能力を持ち、神殿長を操って街を裏から支配していた魔族――。
それが、この子供にとってはただの「使い勝手のいい人形」に過ぎないというのか。
「流石は、あの図体のデカい【煉獄王】ドレイル=マルバスを倒した『地下牢の剣聖』と、『あのお方』から力を借りることの出来る『禁忌魔法の使い手』だけはあるね。人間にしておくには惜しいくらいだ」
少年の言葉に、誠一の瞳が僅かに細められ、背後の静もハッと息を呑んだ。
この子供は、誠一たちが煉獄王討伐を成し遂げた偉業も、静の魔法の正体も、すべて正確に把握している。
魔族サイドも情報収集を怠っていないということだ。
「おまけに、今は本物の『聖女』まで仲間に加えてしまったみたいだし。僕の計画をこれ以上荒らされると、流石に困っちゃうんだよね」
「……お前は、一体何者だ?」
一切の感情を排した、氷のように冷たい誠一の声が大聖堂に響く。
いつでも放てる抜刀の構えを維持したまま、誠一は子供の眼の奥を真っ直ぐに射抜いた。
誠一の問いに、子供はふふっと楽しげに笑い、説教台の上からぴょんと床へと飛び降りた。
音もなく石畳に着地した少年は、まるで貴族が初対面の挨拶をするかのように、優雅に一礼して見せた。
「僕が何者かって? そうだねぇ……」
顔を上げた少年の瞳に、青白い地獄の炎が揺らめいた。
「【死霊王】イルザス=ノワール、と言えば……この街の人間なら、分かってくれるかな?」
その名が発せられた瞬間。
大聖堂の空気が、まるで物理的な重さを帯びたように軋んだ。
「し、死霊……王……本物なのか……?」
「そ、そんな……お伽話の存在じゃ……っ」
生き残っていた司祭たちが、一斉に顔面を蒼白にし、ガタガタと歯の根を鳴らして震え始めた。
大森智也を魔族へといざなった、大いなる存在の名。
【煉獄王】ドレイル=マルバスと並ぶ、魔王ヴェルザ=グラモス配下の四天王の一角――【死霊王】イルザス=ノワール。
その絶望そのものが、純真な子供の皮を被り、誠一たちの目の前に顕現していた。
「さて、少しばかり話をしようかな――せっかく、こうして姿を現したんだしね」
イルザス=ノワールは、愛らしい首を小さく傾げ、純粋な微笑みを浮かべた。
極限まで張り詰めた大聖堂の中で、誠一は静かに、ゆっくりと息を吸い込む。




