第76話 託された希望と決意の旅立ち
大聖堂の最奥、光と影が交錯する説教台の上で、少年の姿をした絶望が微笑んでいた。
魔王ヴェルザ=グラモス配下の四王の一角――【死霊王】イルザス=ノワール。
その小さく愛らしい外見とは裏腹に、彼から放たれる気配は、周囲の空間そのものを凍てつかせるかのような錯覚を覚えさせた。
誠一は『白兎牙』の柄に手をかけたまま、微動だにせず少年を見据えていた。
いつでも神速の一閃を放てる体勢だが、相手の底が見えない以上、迂闊な先制攻撃は背後の仲間たちや生き残りの司祭たちを巻き込む致命傷になりかねない。
じりじりとした緊張感が大聖堂を満たす中、イルザスはふっと肩の力を抜き、大げさに両手を振ってみせた。
「そんなに緊張しなくていいよ、『地下牢の剣聖』。僕は今日、戦いに来たんじゃないんだからさ」
子供特有の軽やかな声音。
しかし、その奥に潜む冷徹な理性が、言葉を続けさせた。
「なんたって、僕の『天敵』である聖女が、ドレイル=マルバスを討伐した君の仲間になってしまった。そんな状況で正面から戦うなんて、流石の僕でも勝ち目がないし、厄介極まりないからね。――だから、僕は戦い以外の方法で、君たちを上回ることにしたんだ」
「……どういう意味だ?」
誠一は声を荒げることなく、静かに問いかけた。
「簡単なことさ。君たちの存在があまりにも目障りで、放っておけば僕の計画が潰される脅威だと判断した。だから――僕は『魔王復活』の儀式を早めることにしたんだよ」
イルザスの言葉に、誠一の隣にいた神代静がハッと息を呑み、杖を握る手に力を込めた。
「何も得られないよりは、不完全な状態でもいい。とにかくこの世界に形にしたんだ。君たちに阻止される前にね。――そう、もう魔王様は復活しているよ」
「なん、だと……」
「計画を潰される前に、強引に事を進めたってわけさ。これでも僕は君たちのことを気に入っていてね。わざわざ教えてあげようと思ってここに来たんだ」
「そんな……嘘、ですよね……?」
結界の解けた大聖堂の床で、エルマが絶望に染まった声を漏らす。
誠一と静がリュゼスト王国を出発し、旅を続けてきた最大の理由。
それは「魔王復活の阻止」だった。
しかし、その目的は、自分たちの強さそのものが原因となって前倒しされ、最悪の形で潰されてしまったのだ。
「落ち込むことはないさ」
イルザスは説教台の影へとゆっくり後退しながら、酷く愉悦に満ちた笑みを浮かべた。
「君たちが優秀すぎたからこそ、僕は復活を早めざるを得なかったんだからね。これは君たちの勝利であり、同時に完全な敗北さ。……ああ、もし魔王様に挑む気があるのなら向かうといい。場所は、聖教国アストライアの聖都ルミナリス。もっとも、今頃はもう跡形もなく壊滅しているはずだけどね」
クスクスという不気味な笑い声を残し、イルザス=ノワールの姿は大聖堂の影に溶けるようにして完全に消失した。
張り詰めていた凶悪な気配が消え去り、大聖堂には本当の静寂が戻る。しかし、誰の心にも勝利の喜びはなかった。
「小山内さん……」
静が沈痛な面持ちで誠一を見つめた。
いつだって冷静な彼女の瞳にも、旅の目的を失ったことへの戸惑いが揺らめいている。
誠一はゆっくりと白兎牙の柄から手を離し、静へと向き直ると、いつもと変わらない穏やかな微笑みを向けた。
「大丈夫だ、神代さん。取り返しのつかない事態になったのは事実――既に多くの犠牲者が出ているというのは残念だが……落ち込んでいる暇はない。俺たちには巨大な敵と戦う力がある。復活してしまったというのなら、この手で直接、その魔王を倒せばいい。やるべきことは、最初から何も変わっていない」
「……そう、ですね。小山内さん、私もどこまでもお付き合いします」
誠一の優しく、しかし決して揺らぐことのない強固な意志に触れ、静の瞳にいつもの聡明な輝きが戻った。
一つの戦いが終わり、そしてより巨大な、世界の命運を懸けた次の戦いの幕が上がった瞬間だった。
* * *
数日後。
激動のセレンヘイム大聖堂は、戦後の混乱の中にあった。
オオモリの呪縛から解き放たれ、無残な最期を遂げた最高神殿長マルセル。
彼が操られていたとはいえ、犯してきた数々の悪行や罪なき人々への弾圧、そして神殿全体の腐敗は民衆の知るところとなっていた。
「生き残った私たちで、まずはこのセレンヘイムのルミエル教の立て直しを行います」
大聖堂の一室で、誠一たちを前にそう語ったのは、あのミラージュゴーストの襲撃を自力の魔法で生き延びた高潔な司祭の一人だった。
「ですが……神殿長が残した傷跡は深すぎます。民の間で、ルミエル教に対する不信感はかつてないほどに増大している。まずは誠意を持って民に尽くし、信仰と信頼を取り戻さねばなりません。その上で――私たちは、世界を救うために動く小山内様たちに、神殿が持つすべての情報網を提供し、協力することをお約束します」
司祭は深く頭を下げた。
彼らが大聖堂に隠された秘密の情報網を使い、聖教国アストライアの状況を確認したところ、結果は最悪なものだった。
死霊王の言ったことは本当だった。
聖教国の中枢であり、世界最強の神聖騎士団を有していたはずの聖都ルミナリスは、復活した魔王によって、一夜にして壊滅状態へと追い込まれているという。
「時間がありませんね。すぐに出発の準備をしましょう、小山内さん」
「ああ、神代さん」
誠一と静が部屋を出ようとしたその時、背後から引き留める声が響いた。
「あの! 待ってください!」
振り返ると、そこには旅装束に身を包んだ聖女エルマの姿があった。
翡翠の瞳には、かつての怯えはなく、強い覚悟の光が宿っている。
「私も、旅に同行させてください。私の【真実の審判】や結界の力は、きっと魔王の軍勢に対抗するための力になります。何より……私を守って死んでいった騎士たちに報いるためにも、私はもう、ここで守られているだけの存在でいたくないんです」
エルマは胸元できゅっと拳を握りしめ、誠一を真っ直ぐに見つめた。
誠一はその覚悟を受け止め、優しく頷いた。
「分かりました、エルマさん。君の力は心強い。これからよろしく頼む」
「はいっ!」
「おいおい、師匠。俺のことも忘れて貰っちゃ困るぜ――当然ついていくからな」
部屋の隅にいたラッドが、緊張した笑みを浮かべながら歩み出てきた。
「師匠が敵との戦いで手いっぱいになるかもしれないだろ? 俺が静姉ちゃんやエルマのことを守るからさ」
「私も、スコットと共に同行させていただきます。エルマ様の護衛としての職務を、今度こそ全うするために」
ギルベルトが、隣に立つ実直な行商人スコットと共に、拳を胸に当てて一礼した。戦闘力のない商人と子供のラッド、それに元騎士団長とはいえ老兵のギルベルトという微妙に頼りにならない仲間が加わったことになる。
リュゼスト王国を出た時は二人きりだった旅路。
だが今、誠一と静の周りには、奇縁で結ばれた仲間たちが集まっていた。
「賑やかな旅になりそうですね、小山内さん」
「そうだな、神代さん。でも、悪くない」
誠一は微笑み、白亜の街セレンヘイムの門を見上げた。
魔王ヴェルザ=グラモスが君臨し、未だ混沌の渦中にあるという聖教国アストライア、聖都ルミナリス。
仲間を増やした誠一たちは、冷たい風が吹き抜ける北の空を目指し、確かな一歩を踏み出した。
(第二章 完)




