第73話 影を縫う剣
「うぐっ……ひぃいいいいいいっ!!?」
血塗られた白亜の大聖堂に、魔族オオモリの情けない悲鳴が響き渡った。
陥没した顔面はすでに黒い靄によって元通りに再生していたが、オオモリの心に刻み込まれた恐怖までが消え去ることはなかった。
どんなに斬り刻まれても死なない『不死』のスキル。
それは彼にとって絶対的な優位性を保証するものだったはずだ。
しかし、目の前に立つ小山内誠一という男の底知れなさは、その前提すらも揺るがすほどの圧を放っていた。
(なんだこいつは……! なんでこんな化け物が、人間の側にいるんだよっ!)
格が違う。
存在の重さが違う。
本能がけたたましい警鐘を鳴らし、オオモリは恥も外聞もなく背を向け、大聖堂の出口に向かって全力で駆け出した。
聖女の暗殺も、自身のプライドもどうでもいい。とにかくこの男から離れなければ、取り返しのつかないことになると直感したのだ。
「待て」
逃げ惑う魔族の背中に、誠一の静かな、しかし有無を言わさぬ声が投げかけられた。
誠一は追う素振りすら見せず、ただシステムにアクセスするように虚空を見つめ、自身の持つポイントを『二十』だけ消費した。
この世界の理によって顕現したのは、何の変哲もない、安物の『鉄の剣』だった。
誠一はその鉄の剣の柄を握ると、一瞬だけ黄金色の闘気を纏わせ、逃げるオオモリの足元――ステンドグラスの光によって床に伸びていたオオモリの『影』めがけて、鋭く投擲した。
ヒュンッ!
と風を裂く音と共に飛んだ鉄の剣は、見事にオオモリの影の中心を貫き、大聖堂の石畳に深々と突き刺さった。
「ぐあああっ!?」
突然、オオモリの体が目に見えない強固な鎖で引かれたように硬直した。
前のめりに倒れ込みそうになった彼は、必死に足を動かそうとするが、まるで地面に縫い付けられたかのように一歩も前へ進むことができない。
「な、なんだこれ!? 足が、動か、ない……っ!」
オオモリが背後を振り返ると、自分の影が、一本の粗末な鉄の剣によって床に縫い留められていることに気づいた。
誠一が持つスキル【影斬】。
本来は敵の影を斬ることで本体に直接ダメージを与える特殊技だが、これはスキルレベルを向上させた誠一の応用技であった。
剣を影に突き刺すことで、その対象の動きを完全に封じたのだ。
「さて。これで逃げられないな」
もがくオオモリを背後で無様に転がしたまま、誠一は彼から視線を外し、大聖堂内を飛び交うミラージュゴーストの大群へと向き直った。
エルマの展開する【福音の結界】に群がり、呪詛の声を上げる死霊たち。結界の維持に苦しむエルマの額には、限界を示すように大粒の汗が浮かんでいた。
「エルマさん、もう少しの辛抱だ」
優しく声をかけると同時に、誠一は愛刀『白兎牙』を振るい、残党の掃討を開始した。
流麗にして峻烈。
闘気を纏った白き刃が舞うたびに、大気を切り裂く飛刃が空間を縦横無尽に走り抜け、何十匹ものゴーストたちが断末魔を上げて霧散していく。
その光景は、もはや戦闘というよりも、芸術的なまでの浄化の儀式であった。
一方、影を縫われ、地面に這いつくばったままのオオモリは、自身の配下たちが紙屑のように消し飛ばされていく様を見て、ついに心が折れたように叫び始めた。
「な、なんだこれは……何なんだお前は! なんで俺の邪魔をするんだよっ!」
オオモリは半泣きの顔で、情けない命乞いを始めた。
「お、俺はただ、弱い奴から金を巻き上げていただけだぞ! それも俺が直接手を下したわけじゃない。あのバカな神殿長を操って、やらせていただけなんだ! だから、俺はそんなに悪いことをしていないじゃないか!」
あまりにも身勝手で、厚顔無恥な言い分。
貧しい村から搾取し、聖女を孤独に追いやり、邪魔な護衛騎士たちを嬲り殺しにしたというのに、自分の手は汚していないから無罪だというのだ。
「こんなに執拗に攻撃することはないだろ……! わかった、もう悪いことはしない。この街からも出て行く! だから、頼む、見逃してくれよぉ……!」
涙を浮かべて哀れみを誘うオオモリ。
だが、その言葉とは裏腹に、彼は地面に伏せたまま背後にこっそりと両手を回し、影に刺さっている鉄の剣の柄を力任せに引き抜こうとしていた。
誠一がゴーストの掃討に気を取られている今のうちに剣を抜き、背後から急所を狙うか、あるいは再び逃走を図る腹積もりだったのだ。
どこまでも姑息で、救いようのない悪意。
誠一はゴーストの処理に集中しており、あえて振り返ろうとはしなかった。
しかし、その醜い企みを見逃さない眼が、結界の中に存在していた。
「……あなたの言うことは、信用できません」
凛とした、氷のように冷徹な声が響いた。
声の主は、エルマの傍らで静かに杖を構えていた神代静だった。
「憐れみを誘い、相手を騙し討ちにしようとするその卑劣な性根、到底見過ごすことはできません。……消えなさい」
静の周囲の空間が、にわかに歪み始めた。
呪文の詠唱はすでに済んでいる。彼女はある魔法のコントロールに意識を集中させ、その力を解き放った。
――禁忌魔法:【虚空断章】。
それは、神聖不可侵とされる「混沌の神」から力を借り受け、事象そのものを消滅させる禁断の魔法。
本来であれば制御不能なほどの強大な破壊をもたらす力だが、迷宮や地上での度重なる激戦を経てスキルレベルを向上させた静は、その絶大な出力を己の意志で抑え込み、小規模かつ局所的に発動させることが可能になっていた。
「な、なんだ……!? 空気が……」
オオモリが息を呑んだ次の瞬間。
静の目の前の空間に、真っ黒な『無の亀裂』が走った。光すらも吸い込む、絶対的な虚空の裂け目。
そこから、ズルリと這い出してきたのは――周囲の空気を凍りつかせるほどの圧倒的な神格を纏った、細長く小さな『黒い手』が二つ。
「ヒィッ……!?」
黒い手は、まるで虫を摘むかのように真っ直ぐオオモリへと伸び、剣を引き抜こうとしていた彼の両肩へ、背後からスッ……と掴むように入り込んだ。
「ひぎゃぁあああああああっ!! な、何だこれ、はっ、離せぇっ!!」
半狂乱になって暴れるオオモリ。
しかし、神格を持つその手から逃れられる術など、一介の魔族にあるはずもなかった。
黒い手は、オオモリの存在の『一部』――両肩から先の腕をごっそりと握り取り、そのまま音もなく無の亀裂の中へと引きずり込んでいった。
パチン、と空間が閉じる音が鳴り、大聖堂に静寂が戻る。
「あ……あぁ……っ?」
オオモリは、失われた自身の両肩を見つめ、信じられないものを見るように目を剥いた。
【不死】のスキルを持つ彼にとって、肉体の欠損など本来であれば瞬時に治るはずの軽い怪我に過ぎない。
黒い靄が傷口に集まり、肉体を復元しようと蠢き始める。
しかし――
靄は形を作ることなく、空しく霧散していった。
「な、なんで……っ! 俺の、俺の腕が……再生しない……!?」
【虚空断章】によって奪われたのは、単なる肉体のパーツではない。
オオモリの『存在そのもの』が削り取られ、虚空へと消え去ったのだ。存在しないものを、再生することはできない。
絶対の自信を持っていた【不死】の力が完全に破られ、オオモリはただ血を流すだけの惨めな敗北者として、絶望のどん底に突き落とされた。
それを見届けた誠一は、最後のゴーストを斬り伏せると、ゆっくりと白兎牙を鞘に納めた。
戦いの趨勢は、完全に決したのである。




