第68話 無力なる悪意と少年の誓い
古びた応接間に、重苦しい沈黙が降りていた。
老騎士ギルベルトから語られる城塞都市セレンヘイムの現状と、聖女エルマを取り巻く環境は、想像を絶するほど陰惨なものだった。
「エルマ様が覚醒されてからというもの、神殿上層部はこの古びた屋敷をあてがい、彼女を事実上の軟禁状態に置いた。そして護衛の騎士をすべて遠征へと追いやり、孤立させた後……不思議なことに、夜な夜なこの屋敷がレベルの高い死霊系の魔物に襲われるようになったのだ」
ギルベルトの言葉に、神代静が鋭い視線を上げる。
「死霊系の魔物……小山内さんが昨日退けた、司祭の配下と同じものですね」
「ああ。おそらく村を襲った魔物と同じ出処だろう。状況証拠からして――神殿の中枢は完全に邪教徒と結託していると見ていい」
小山内誠一が静かに答える。
大聖堂の内部に、どれほどの魔の巣窟が広がっているのか想像もつかない。
「ですが、いくらギルベルトさんが歴戦の騎士とはいえ、物理攻撃が効きにくい霊体の魔物を相手に、お一人で今までどうやってエルマ様を守り抜いてこられたのですか?」
静の疑問は当然だった。
闘気を極めた誠一ならともかく、通常の騎士にとって実体のない魔物は天敵である。
しかし、ギルベルトは首を横に振った。
「魔物を退けたのは、私ではない。……エルマ様の力だ」
「えっ……私、ですか?」
当のエルマ自身が、驚いたように大きな翡翠色の瞳を瞬かせた。
「エルマ様はご自身の力に無自覚だが……成人の儀で得た二万三千というポイントで、最高位の四つのスキルを取得している。それらを使いこなすために、日々この屋敷で練習しているのです」
「つまり、聖なる力を日常的に行使しているおかげで、無自覚に邪悪な魔物を撃退していたわけですね……」
「ええ。スキルで結界を張れば、その効力はしばらく持続しますから」
ギルベルトはエルマを守るように庇いながら、彼女の持つ奇跡の力を語り始めた。
「一つ目は【聖王の慈光】。いかなる重傷や病であっても瞬時に癒やす、最高位の光属性回復魔法だ。そして二つ目が、魔物たちを退けた【真実の審判】。このスキルは、あらゆる『呪い』や『魔の瘴気』を完全に消し去る力を持つ。霊体の魔物など、エルマ様がその力を振るえば、光に焼かれる雪のように浄化されてしまう」
ラッドが「すげえ……」と感嘆の息を漏らす。
「三つ目は【福音の結界】。自身と周囲の味方の精神を保護し、あらゆる状態異常や恐怖による精神支配――洗脳やガスライティングのような外法を完全に無効化する絶対防壁だ。そして四つ目が【純潔の祈り(レクイエム)】。他者の魔力や身体能力を飛躍的に増幅させる」
誠一は顎に手を当て、深く納得した。
(なるほど。神殿の中枢が邪教徒に乗っ取られているなら、彼らにとってこれほど厄介な存在はないな)
魔の瘴気を浄化し、洗脳を無効化し、周囲の人間に力を与える。まさに悪を根絶するために神が遣わした『天敵』だ。
神殿側が彼女を利用するのではなく、早々に暗殺へ舵を切った理由も頷ける。
「……だが、奴らも馬鹿ではない。死霊や呪いでは聖女に勝てないと悟ったのか、数日前から襲撃の手口を切り替えてきたのだ」
ギルベルトの顔に、深い疲労と焦燥の色が浮かぶ。
「霊的な瘴気を持たない、街のチンピラやならず者たちを金で雇い、物理的な暴力で襲わせるようになった。……エルマ様の力は、あくまで魔を祓い、人を癒やすためのもの。悪意があろうとも、相手がただの人間である以上、彼女のスキルで敵を倒すことはできない」
聖なる力は、人間同士の泥臭い暴力の前ではあまりにも無力だった。
ギルベルトは自身の袖を少し捲り上げた。
その太い腕には、剣で斬られた真新しい傷跡がいくつも刻まれている。エルマの【聖王の慈光】で治癒してはいるものの、失われた体力までは元に戻らない。
「これまで剣を振るい、なんとか退治してきたが……私もすでに老体だ。数の暴力で押し込まれれば、いずれ限界が来る。このままでは、エルマ様が汚らわしい欲望の犠牲になるのは火を見るより明らかだった。そんな時、私の情報網が、一つの凶報と吉報をもたらしたのだ」
ギルベルトは誠一を真っ直ぐに見つめた。
「昨日の昼前、あのマルセル神殿長が差し向けた数千の魔物の軍勢が、近隣の村を包囲した……という凶報。しかし、その軍勢が、村に滞在していた『一人の旅の冒険者』によって一瞬で消滅させられた、という吉報をな。スコットがギルドで手続きをしていると聞き、私は藁にもすがる思いで彼に接触したのだ」
すべてを話し終えたギルベルトは、再び深く頭を下げた。
「どうか……神の奇跡であるこの方を、人間の悪意から守ってやってほしい。私からは、もうこれ以上差し出せるものはないが……」
「頭を上げてください、ギルベルトさん」
誠一は静かな声で老騎士を制した。
そして、ソファで身を縮めているエルマの正面に立ち、彼女と視線を合わせる。
「エルマさん。君はもう、自分の身を削って一人で戦う必要はない。人間の悪意も、魔物の刃も、俺たちがすべて引き受ける」
誠一は、いつもの穏やかな、けれど決して揺らぐことのない強さを宿した瞳で微笑んだ。
「任せてください。俺が必ず、君を守ります」
その言葉は、大仰な誓いでも、力への自惚れでもなかった。
ただ、朝起きて顔を洗うのと同じくらい当たり前の事実として、誠一はそう告げたのだ。
エルマの瞳から、再び大粒の涙がこぼれ落ちる。
今度は恐怖ではなく、安堵の涙だった。
「ああ、師匠の言う通りだぞ!」
不意に、誠一の背後から元気な声が飛び出した。
ラッドが一歩前に進み出て、胸をドンと叩く。
「俺の師匠は信じられないくらい強いんだ! そんなチンピラどもなんて、剣の一振りで蹴散らしちまうんだ! だから……もう、心配しなくていいぞ」
勢いよく言ったものの、涙目で自分を見つめてくるエルマの可憐な顔を正面から見てしまい、ラッドは急激に顔を真っ赤にして口ごもった。
「そ、それに、俺も! 俺も師匠に鍛えられてるから、いざって時はお前のことを守ってやる! だから、その……泣くなよ」
耳の先まで赤く染めながら、しどろもどろに励ます十三歳の少年。
一つ年上のエルマは、そんなラッドの不器用で真っ直ぐな優しさに触れ、涙を拭いながら、ふわりと花が咲くような笑みを浮かべた。
「ふふっ……ありがとう、ございます。ええと……」
「お、俺はラッドだ! よろしくな、エルマ!」
どうやら、年上の少女に一目惚れをしてしまったらしい。
過酷な状況下で芽生えた少年の淡い初恋の兆しに、緊迫していた空気がふっと和らぐ。静も微かに口角を上げ、誠一はラッドの頭をポンと撫でた。
「頼もしい弟子がいて助かるよ。……さて、敵が手口を変えてきているなら、今夜あたり、また動きがあるかもしれないな」
誠一は表情を引き締め、館の窓から見える夕暮れの空を見上げた。
聖女を巡る防衛戦。
剣聖の力が、セレンヘイムの闇を切り裂く夜が始まろうとしていた。




