第67話 孤独な聖女と天秤の理
分厚い木製の扉が重々しい音を立てて閉まると、外の喧騒は完全に遮断された。
老騎士ギルベルト・フォン・ロドリックに案内され、誠一たちは古びた館の廊下を進んでいく。だが、歩を進めるごとに誠一は微かな違和感を覚えていた。
「……静かですね。他の方はいらっしゃらないのですか?」
誠一の問いに、前を歩くギルベルトの広い背中がわずかに沈んだ。
「ああ。ここには今、私以外に誰もいない。使用人たちもすべて暇を出した。ここから先の話は、誰の耳にも入れさせるわけにはいかんからな」
かつては多くの騎士たちが寝食を共にし、活気に満ちていたであろう館は、今や冷たい静寂に支配されている。その静けさは、ギルベルトが置かれている孤立無援の状況を雄弁に物語っていた。
やがて、一行は館の奥にある応接間へと通された。
年季の入った革張りのソファが置かれたその部屋には、先客がいた。
「ひっ……」
誠一たちが入室した途端、部屋の隅の椅子に座っていた人影がビクッと肩を震わせた。
それは、十四歳ほどの小柄な少女だった。
城塞都市の神聖な雰囲気にはおよそ似つかわしくない、使い古された質素な麻布の服。栄養状態が良くなかったのか、手足は細く、亜麻色の髪もどこかパサついている。
しかし、警戒心に揺れる大きな翡翠色の瞳の奥には、不思議なほど澄み切った清らかな光が宿っていた。
「怯えることはない。彼らは――私の目に狂いがなければ、我々の剣となり盾となってくれる者たちだ」
ギルベルトが努めて優しい声で語りかけると、少女は恐る恐る立ち上がり、彼を頼るようにその背中に隠れた。
「ご紹介しよう。この方は、エルマ様。セレンヘイムの孤児院で育ち……先日の成人の儀にて覚醒された、正真正銘の『聖女』様だ」
「聖女……!」
行商人のスコットが息を呑み、ラッドが目を丸くした。
神代静もまた、驚きに僅かに目を見開いている。
「セイイチ殿、私が貴殿方にお願いしたいのは他でもない。このエルマ様の護衛を、どうか引き受けていただきたいのだ」
老騎士は深く頭を下げた。
誠一は驚く仲間たちの中でただ一人、落ち着いた様子のまま、事の次第を整理するように静かに口を開いた。
「ギルベルトさん。頭を上げてください。事情は分かりましたが、いくつか疑問があります。……エルマさんが本当に『聖女』として覚醒したのなら、神殿側が国を挙げて彼女を保護し、大聖堂で手厚く遇するのが筋ではないのですか?」
誠一の指摘はもっともだった。
この世界において、人間は十四歳で成人を迎えると、天より『スキルポイント』が与えられる。そのポイントを糧として、己の魂に刻まれたスキルや装備を顕現させるのが世界の理だ。
しかし、ギルベルトは苦々しい表情で首を振った。
「その常識が通用するのは、神殿の腐敗が及んでいない場所での話だ。……エルマ様は、成人と共に『2万3千ポイント』という、類稀な神からの恩寵を受けられた。そして、最高位の回復魔法や結界スキルを顕現させたのだ」
「に、2万3千……!?」
ラッドが思わず大声を上げる。
一般的な住人が成人の儀で得られるポイントは、平均して500ポイント前後。
平均の四十倍以上。
それはもはや、個人の努力や才能といった次元を遥かに超越した、神の御業そのものだった。
「それほどの力を持つ本物の奇跡が現れたというのに、現在の神殿上層部は……マルセル神殿長は、彼女の存在を喜ばなかった」
「……神殿長が、ですか?」
静が眉をひそめる。
「ああ。マルセルは彼女を『恐れた』のだろう。何しろ、エルマ様の持つ『真実の審判』というスキルは、彼らの行っている偽りの奇跡や搾取を看破してしまえるのだ。……結果として、彼女は神殿にとって最も目障りな存在となった」
ギルベルトはギリッと歯を食いしばり、拳を握りしめた。
「エルマ様を守るために、私と志を同じくする優秀な若き騎士たちを護衛に付けた。だが、彼らはことごとく不自然な辞令を受け、辺境の魔物討伐など、地方への長期遠征へと飛ばされてしまった。――今や、この街にエルマ様を守る正規の護衛は一人もいない。……引退した身ゆえに上層部からの命令で動かせなかった私だけが、唯一の盾という有様だ」
「だから、この屋敷には誰もいないんですね」
誠一は深く納得した。
神殿の中枢は、完全に腐り切っている。自分たちの権力と秘密を守るためなら、神の遣いである聖女すらも孤立させ、あわよくば暗殺しようと目論んでいるのだ。
「私一人の力では、いずれ限界が来る。そう絶望しかけていた時に、スコットから貴殿の話を聞いたのだ。武の極致に達した貴殿の強さがあれば、あるいは……!」
「……分かりました」
ギルベルトの悲痛な叫びを遮るように、誠一は力強く頷いた。
「その依頼、俺たちで引き受けましょう」
「おお、セイイチ殿……! おお、何と感謝すればよいか……!」
ギルベルトが顔をくしゃくしゃにして安堵の息を吐く。
誠一はソファの陰に隠れているエルマと同じ目線になるように、ゆっくりと膝をついた。
「エルマさん、だね」
誠一が優しく微笑みかけると、エルマはビクッと体をすくませたが、誠一から一切の害意や欲望を感じ取れなかったのか、おずおずと頷きを返した。
「俺の名前は小山内誠一。こっちは神代静さんと、ラッドだ。これからは俺たちが君を守るから、もう怖い思いはしなくていいよ」
「あ……ありがとう、ございます……」
エルマの小さな瞳から、張り詰めていた糸が切れたようにポロポロと涙がこぼれ落ちた。
静もそっとエルマの傍に寄り添い、その細い背中を優しく撫でる。ラッドも「俺に任せとけって!」と胸を張って見せた。
温かい空気が応接間を包み込む中。
立ち上がった誠一は、誰にも悟られないように僅かに瞳の奥を鋭く細めた。
(……2万3千ポイントを与えられた、本物の聖女)
姫騎士マリーヌから『覚醒者』について聞き及んでいる誠一は、この世界が常に『バランス』を取ろうとすることを知っていた。
何もない平穏な場所に、これほどの過剰な力を持つ者が生まれるはずがない。
世界がエルマという少女に2万3千ものポイントを与え、強引に「聖女」として覚醒させたのだとしたら。
それはつまり――このセレンヘイムという都市には、本物の聖女が命を賭して相対しなければならないほどの、『世界を滅ぼすレベルの規格外の脅威』がすでに潜んでいるという、何よりの証明ではないのか。
「神代さん」
誠一は傍らの相棒に、周囲には聞こえないような微かな声で語りかけた。
「気を引き締めよう。……この街の闇は、俺たちが想定していたよりも、ずっと深くて巨大かもしれない」
「……はい、小山内さん」
静もまた、誠一の言葉の裏にある真意を察し、鋭い視線で頷き返した。
聖女の護衛という大役を任された誠一たち。彼らが城塞都市の深淵に潜む本物の魔に直面する時は、すぐそこまで迫っていた。




