第64話 聖域の汚染、あるいは歯車の再始動
大森智也は、活気にあふれる巨大な城塞都市「セレンヘイム」の裏路地で、忌々しげに舌打ちをした。
彼を「魂の片割れ」とまで呼んで歓迎し、半年以上もの月日を共に過ごした野盗たちを騙し、その隠し財産の大半をくすねてこの町へ潜入したのは数日前のこと。
だが、豪遊を続ければ金はすぐに底をつく。
大森にとって野盗の群れなど、最初から使い捨てるつもりの安い駒でしかなかったが、次の「寄生先」を見つける前に資金が尽きかけるのは計算外だった。
「そろそろ、リスクを取る頃合いか。ビジネスってのは、攻めなきゃ勝てないからな」
大森が新たなターゲットに定めたのは、この世界で絶大な権力を誇る宗教組織――光の神にして聖光竜ルミエル=アストラを崇める「ルミエル教」。
その中でも、回復魔法のスキルを与える聖王ミリア=セレノスを祀る、大規模な神殿のトップである神殿長だった。
宗教ほど、悪党にとって利用しやすい隠れ蓑はない。
「神の慈悲」だの「光の導き」だのといった美辞麗句で弱者から搾取する構造は、大森が現代日本で展開していた特殊詐欺のスキームと何ら変わらないからだ。
大森は信者を装って白亜の大神殿へと侵入し、一般信者の立ち入り禁止区域を歩き回った。
そして、運良く回廊を歩く神殿長一行を発見する。
機は熟した。
対象に直接触れて《精神共鳴》さえ発動できれば、この国の宗教的頂点に立つ男は、大森の完全な「親友」にして忠実な犬となる。
「神殿長様!」
大森はわざとらしく叫び、駆け寄った。
しかし、神殿内の要人警護は甘くなかった。
大森の手が神殿長の法衣に届く寸前、屈強な護衛の兵士たちが素早く立ち塞がり、大森の腕を乱暴に捻り上げ、冷たい石の床へと押しつけた。
「ぐあっ……!」
「何奴だ! 神殿長猊下に気安く近づくでない!」
剣の柄で後頭部を小突かれ、大森は痛みに顔を歪めた。
だが、彼の冷徹な思考は止まらない。すぐさま自分を拘束している兵士の腕を強く握り返し、慌てたような悲鳴を上げた。
「待ってくれ! 危害を加えるつもりはない! 討伐隊でも手を焼いている『野盗』の隠れ家の情報を提供しようと思って、焦ってしまったんだ!」
言葉を発すると同時に、彼を押さえつける兵士へ向けて《精神共鳴》を起動する。
「なに……! 野盗の正確な情報だと……?」
兵士の瞳孔が微かに開き、直後に大森に対する親愛の情が脳髄を支配した。
つい先ほどまで不審者として敵視していた男が、無二の親友へと書き換わる。
兵士は慌てて大森の拘束を解き、神殿長に向かってかしこまった。
「猊下、この者から詳しい話を聞きたいのですが、よろしいでしょうか。私の個人的な『感』ですが――決して怪しい者ではありません」
周囲の兵士が訝しむ中、共鳴した兵士は大森を庇い、素早く取調室という名の密室へと案内した。
「助かったぜ、兄弟」
「なに、お安い御用だ。それで、野盗の情報というのは?」
取調室で二人きりになった大森は、数日前まで自分を「心の友」と慕っていた野盗の仲間たちを、呼吸をするようにあっさりと売った。
この世界に来る前に、日本で警察の手が迫った際、切り捨てた不良仲間や闇バイトの実行役たちの顔が思い浮かぶ。
(使える駒は使い潰すのが合理的だ。底辺のクズどもには、それがお似合いの末路だからな)
大森の提供した情報は極めて正確であり、彼は討伐隊の絶対的な信用と「協力」を勝ち取ることに成功した。
* * *
数日後――
精神汚染された兵士の手引きによって、大森は再び神殿長と謁見する機会を得た。
兵士との共鳴を切り、大森は静かに神殿長の御前へと歩み寄る。
「猊下……どうか、罪深き私に懺悔させてください」
涙声を作って跪き、大森は神殿長のしわがれた両手をしっかりと握りしめた。
そして――《精神共鳴》。
大森の根源にあるヘドロのような悪意が、接触面を通じて聖職者の脳髄へと注ぎ込まれ、純白の信仰心をどす黒く汚染していく。
「おい貴様、突然何を――」
「まあ、待ちなさい。この者は救いを求めているのです」
周囲の兵士が剣を抜こうとするのを、神殿長は穏やかな声で制止した。
その瞳の奥には、すでに大森に対する歪な親愛と、底知れぬ欲望が渦巻いていた。
その日の午後、神殿長は大森を自室の豪華な応接間へと招き入れていた。
「いやあ、オオモリ殿の言う通りだ。『光の神』への寄付金という名目なら、貧乏人どもからいくらでも搾り取れる。救済の建前さえあれば、貧民の労働力をタダで酷使することも造作もない」
「ええ、親友(笑)。寄付金の運用は俺が裏でうまく回しますよ。俺たちは『神の慈悲』のもとで、もっと賢く生きるべきです」
聖なる空間で、極めて悪辣な利権ビジネスの構築が語り合われる醜悪な光景。
高級なワイングラスを傾けながら、大森は心の底で腹を抱えて笑っていた。
(チョロい。異世界、マジでチョロすぎだろ。何でもかんでも俺の思い通りじゃねえか)
現代でコソコソと秘匿アプリを使い、海外の上役に怯えながら貢いでいた日々と比べれば、ここはまさに天国だった。
自分こそがこの世界の支配者だ。そんな思いあがった全能感が、大森の全身を満たした。
だが、その全能感の絶頂で、彼の「異常な魔力量」と「極めて邪悪な精神」が、ある“存在”にその波長を捉えられてしまった。
『……へぇ。卑小な人間のくせに、とても甘美な悪意を宿しているじゃないか』
「あ……え……?」
大森の脳内に、虚無の底から響くような声が直接木霊した。
それは、リュゼスト王国の人々を苦しめ、これから誠一たちが戦うことになる【煉獄王】と並び称される魔王配下の幹部――【死霊王】イルザス=ノワールの精神波だった。
この世界には、残酷な理が存在する。
「邪悪な精神を宿した人間は、肉体を作り変えられ、魔族へと変貌する」。
大森の抱く純度100パーセントの悪意は、強大な死霊王にとって、極上の苗床でしかなかった。
「な、なんだこれ……頭が、割れ――ッ!!」
『我が配下となれ、矮小なる悪よ。お前のその精神は、僕が有効に使い潰してあげるからさ』
「あっ、あっ、ああ、あがっぁぁぁぁあぁああああ!!」
神殿の奥深く、防音の施された密室で、大森智也は白目を剥き、血の涙を流して絶叫した。彼自身の卑小な精神は、強大すぎる魔の波長によって粉々に砕かれ、作り変えられていく。
人間の肉体は異形へと変異し、魂の根底には「死霊王への絶対的な忠誠」が刻み込まれた。
「……ハァ、ハァ……。あはっ、あはははははっ――おお! 偉大なるイルザス様。すべては、貴方様のために」
数分後、そこに人間の大森智也はいなかった。
いるのは、死霊王の意思を地上で代行する、魔族と化した忠実なしもべだけだ。
彼は自分がこの世界の「王」になったと勘違いしていた。
しかし実態は、現代で闇バイトの指示役として「海外の上役」に絶対服従していた構造と何ひとつ変わらない。
異世界に来てもなお、より上位の絶対的な悪に支配され、指示されて動く「使い勝手のいい歯車」へと戻っただけなのだ。
その滑稽な悲劇性に気づくこともなく。
魔族へと再構築された大森は、隣で光を失った目で微笑む神殿長と共に、悦に浸りながらさらなる悪事へと手を染め始めたのだった。




