第62話 神の如き全能感、あるいは……。
視界を焼き切るほどの白光が、ゆっくりと網膜から引いていく。
次に大森智也の鼻腔を突いたのは、排気ガスの焦げた臭いではなく、むせ返るような草いきれと、乾いた土の匂いだった。
「なっ、なんだ、ここは……?」
呆然と立ち尽くし、辺りを見渡す。
そこは見覚えのない街道のど真ん中だった。
つい先刻まで、彼は日本のありふれた通学路を歩いていたはずだ。
それが今は、見渡す限りの地平線と、深い緑の森、そして石畳ですらない未舗装の道が続いている。
普通の人間ならパニックに陥る場面だろう。
だが、大森の脳は極めて合理的——あるいは、他人の命を数字でしか見ない欠落した合理性によって、即座に現状を分析し始めた。
直前の異常な光。
地面に出現した幾何学模様。
そして、物理法則を無視した状況変化。
かつて、幼い頃に見たアニメや漫画の光景が脳裏をかすめる。
救世主として召喚され、圧倒的な力で世界を支配する悪を倒す少年の――くだらない子供騙しの物語。
「まさか、あの『異世界召喚』ってやつか……?」
鼻で笑い飛ばそうとしたが、あまりに現実離れした光景を前に、否定する材料がない。大森は自分を「賢い人間」だと思っている。ならば、この馬鹿げた状況もまずは利用すべきだと判断した。
彼は半信半疑のまま、空に向かってあの「合言葉」を呟く。
「……ステータス」
刹那、視界に半透明のウィンドウが浮かび上がった。
そこに記された文字列を目にした瞬間、大森の口角が、醜く歪んだ。
「マジかよ。これ……」
そこに表示されていたスキルポイントの数値。
——【所持スキルポイント:42,000】
それがどれほどの価値を持つのか、この時の大森には比較対象がなく判らなかった。
だが、その桁外れの数値が、自分に与えられた「特権」であることは直感的に理解できた。
さらにもう一点、奇妙な項目がある。
【HP:80 / MP:560,000】
生命力は四、五十代の平均的な中年男性と変わらないが、魔力(MP)だけが異常なほどに膨れ上がっている。まるで彼の魂に宿る「どす黒い欲望」が、そのまま魔力の器を押し広げたかのようだった。
「ヒヒッ……ハハハハハッ!」
誰もいない荒野に、大森の乾いた笑い声が響く。
十六年の懲役。十年の食い詰め。
これまでの不運はすべて、この瞬間のためにあったのだと、彼は確信した。
あの時、警察に捕まったのも、その後の人生を棒に振ったのも、すべては「神」が彼をこの世界へ連れてくるための調整だったのではないか。
溢れ出す万能感。
本編の主人公・小山内誠一が、わずか「420ポイント」という端に絶望し、王宮で冷遇されていたことなど、大森は知る由もない。
ただ彼は、自分こそがこの世界の「王」になるべくして呼ばれたのだと解釈し、傲慢な全能感に酔いしれていた。
「さて、どう料理してやるか……」
大森はウィンドウに表示された膨大なスキルリストを、冷徹な目で眺める。
彼がこれまでの人生で培ってきたのは、暴力ではない。もちろんそれもあったが、メインではなかった。
彼の人生の本領――それは他人を騙し、有力者に媚を売り、安全な場所から他人を駒として動かすこと。
そのための力が必要だった。
* * *
彼は迷うことなく、二つのスキルを選択した。
【不死:30,000pt】
いかなる致命傷、疾病、老衰によっても、その魂が肉体から離れることはない。
強盗の指示役として、「自分だけは安全な場所で生き残る」ことを徹底してきた彼らしい、保身の極致。
【精神共鳴:12,000pt】
対象と精神の波長を強制的に同調させ、相手に「自分こそが唯一無二の理解者であり、親友である」と誤認させる。
無条件の信頼。洗脳の完成形。
これまでの詐欺人生で培った「人心掌握」を、魔法の領域まで昇華させた力だ。
42,000ポイント。
すべての資産を、最も有用なスキルへと注ぎ込んだ。
「ポイントは使い切ったが、上出来だ。俺にぴったりの能力じゃねえか」
大森は満足げに腕を組んだ。
これさえあれば、自分は戦う必要さえない。
現地の王、あるいは勇者、そういった「力ある者」と出会い、この《精神共鳴》で親友になればいい。
あとは彼らの富と力を、自分のために浪費させるだけだ。
かつて闇バイトの実行役を使い捨てたように、この世界の英雄たちを自分の使い勝手のいい駒へと作り変えてやる。
「この俺を召喚した奴らは、せいぜい俺を接待する準備でもしておくんだな」
この時の彼は知る由もなかったが、異世界人を召喚する魔法陣は「時空間移動」を可能とするものだった。
そして、その魔法陣は極めて不安定な代物でもあった。
「時間」と「空間」の座標がわずかにずれた結果――
巻き込まれただけの彼は、この世界で日置が召喚される予定だった日時よりも 三年も早く、この世界へと放り出されていた。
* * *
大森は鼻歌混じりに、遠くに見える町らしき影を目指して歩き出した。
足取りは軽い。
これからの「再犯」計画を練る頭脳は、最高潮の活性を見せていた。
誰を騙し、誰を嵌め、どの国を支配下に置くか。
そんな薔薇色の妄想が、彼の脳内を支配していた。
歩き続けて一時間ほど。ようやく町を囲う石壁の門が、はっきりと視界に捉えられる距離になった。
「よし、まずはあの町の有力者から——」
その時だった。
シュッ、という、短く鋭い風切り音。
それが、大森が耳にした最後の音だった。
直後、彼の後頭部に凄まじい衝撃が走った。
見えない巨人に鉄槌で叩かれたような感覚。視界がぐにゃりと回転し、天地が逆転する。
「あ……え……?」
地面に叩きつけられた衝撃で、ようやく自分が「射抜かれた」ことに気づいた。
一本の太い矢が、彼の左目付近を貫通して突き出していた。後頭部から放たれた狙撃が、脳幹を破壊して眼窩から飛び出したのだ。
普通なら即死。
だが、彼はつい先ほど、三万ポイントを支払って「それ」を手に入れたばかりだった。
(な、なんだ……熱い……痛ぇ……死ぬ、死んじま……)
眼球が破裂し、脳をかき回されるような激痛。
死の恐怖が心臓を握りつぶす。
しかし、スキルの効果により、彼の意識は冷酷なまでに明晰なまま、その苦痛を完璧に受信し続けている。
「おい、仕留めたか?」
「ああ、急所だ。一撃だったぜ」
遠くから、耳慣れない言語だが、なぜか意味のわかる声が聞こえてくる。
草むらから現れたのは、汚い革鎧を纏った男たちだった。町の外でカモを待っていた、しがない野盗の類だろう。
全能感の頂点から、無惨な肉塊への墜落。
本編の誠一が、弱小モンスターであるシャドーラビットに殺されかけ、この世界の理不尽さを学んだように。
大森智也もまた、自らが選んだ「不死」という呪いと共に、この世界の洗礼を全身で受け止めていた。
矢に貫かれたまま、大森は泥の中に顔を埋めた。




