第58話 迫り来る影
澄み切った朝の空気が、小さな村を包み込んでいた。
城塞都市セレンヘイムへ向かう行商人スコットの護衛として旅を続ける小山内誠一たちは、補給と休息を兼ねて、街道沿いにあるこの名もなき村に滞在していた。
「はぁっ、たぁっ……!」
宿屋の裏手にある広場で、少年ラッドの気合いの入った声が響く。
彼は額に大粒の汗を浮かべながら、誠一に向かって必死に木剣を振り下ろしていた。誠一は余裕のある足取りでそれを躱し、時には自らの木剣で軽く受け流す。
「いい太刀筋だ、ラッド。だが、大振りになりすぎている。力だけでなく、足の運びで剣を振るうことを意識するんだ」
「は、はいっ! 師匠!」
ラッドは素直に頷き、再び木剣を構え直した。
その瞳には、純粋な尊敬と向上心が満ちている。
この世界において、人間は一定の年齢に達し「成人」と認められると、その人物の素質に応じたスキルポイントを与えられる。
その際、どのようなスキルが習得可能リストに現れるかは、個人の天賦の才に加えて、それまでの人生経験が大きく影響すると言われていた。親の仕事を手伝ってきた子供が、親と同じ職業特性を得やすいのはそのためだ。
ラッドに剣士としての適性があるかは、現時点では分からない。
しかし、こうして基礎を体に叩き込んでおけば、彼が成人した時、選択肢に望むスキルが現れるかもしれない。
剣聖というスキルを持つ誠一にとって、ラッドの相手はただのお遊びにもならない。
(……だが、こういうのも悪くないな)
迷宮の底で二十六年間、一瞬の油断が死に直結する血みどろの戦いを繰り広げてきた誠一にとって、ラッドとの稽古は平和そのものだった。
子供の真っ直ぐな成長を見守ることは、誠一の心に癒やしをもたらす時間でもあった。
誠一は自らの圧倒的な力をひけらかすことなく、あくまで一人の「稽古相手」として、心地よい汗を流す少年に付き合っていた。
「小山内さん、ラッド君。そろそろお昼にしますか?」
宿の裏口から顔を出した神代静が、二人に声をかける。
誠一が木剣を下ろし、「ああ、そうしよう」と答えようとした――
その時だった。
「ふざけるな! これ以上の寄付など、払えるわけがないだろう!」
「神への奉仕を拒むというのか、この愚か者どもめ!」
村の中心部から、怒号と罵声が入り混じった騒がしい声が響いてきた。
* * *
誠一と静が顔を見合わせ、ラッドを連れて広場へ向かうと、そこには異様な光景が広がっていた。
村の長老らしき老人を先頭に、クワや斧を手に持った数十人の村人たちが、豪奢な法衣を着た恰幅の良い男を取り囲んでいる。男は村に赴任してきたばかりの司祭のようだったが、その顔は恐怖と怒りで真っ赤に染まっていた。
「神の使いである私に向かって、刃向かう気か! 異端審問にかけられ、村ごと焼かれても良いのだな!」
「焼かれる前に、俺たちが飢え死にしてしまうわ! お前が来てからというもの、理由をつけては金や作物を搾り取りおって! もう我慢の限界だ、出て行け!」
村人たちの怒りは頂点に達していた。
圧倒的な数の暴力と、失うものがない者たちの放つ気迫に押され、司祭は顔を引きつらせて後ずさる。
「お、覚えておれ! この恨み、必ず晴らしてくれるわ!」
捨て台詞を吐き捨てると、司祭は転がるようにして村の出口へと逃げ出していった。村人たちの間から、安堵と、緊張の糸が切れたような深いため息が漏れた。
* * *
騒動が落ち着いた後。
誠一、静、ラッドの三人は、依頼主である行商人スコットと合流し、村で一軒だけ営業している食堂のテーブルを囲んでいた。
運ばれてきた黒パンと野菜のスープに手をつけながら、スコットが周囲を気にしつつ声を潜めた。
「どうやら、最近この村に来たあの司祭が、多額の寄付を村人たちに要求していたようです」
各地を巡る行商人であるスコットは、村の経済状況や噂話に敏感だった。
「私の取引している相手の間でも、あの司祭の悪評判は広まっていました。回復魔法も満足に使えないくせに、教会の権威だけを振りかざして金品を巻き上げていたと。……村人たちも、ついに耐えきれなくなったんでしょう」
「……ルドニアのギルドで買った情報と、全く同じ手口ですね」
静が冷ややかな声で呟いた。
城塞都市セレンヘイムから派遣された司祭たちが、各地で不当な搾取を行っているという事実。それがこの村でも起きていたのだ。
「ああ。セレンヘイムの神殿中枢が腐敗していることは、もはや疑いようがない」
誠一はスープを一口飲み、静かに頷いた。
ラッドの村を支配していた司祭。
あるいは、今日追い出されたこの村の司祭。
彼らは皆、セレンヘイムという巨大な組織の末端に過ぎない。この腐敗の根源を絶たなければ、真の平和は訪れないだろう。
「神代さん。このままセレンヘイムへ向かうのは、想像以上に危険な旅になるかもしれない。……覚悟はいいか?」
「もちろんです、小山内さん。私が叶えた願いの代償……それを払うためにも、引き下がるつもりはありません」
静の瞳には、迷いのない強い意志が宿っていた。
誠一はその横顔を頼もしく思いながら、今後の護衛任務により一層の警戒を払うことを決意した。
* * *
その日の夜。
村人たちによって追い出された司祭は、村から少し離れた薄暗い森の入り口で、身を隠すようにして息を潜めていた。
彼の顔には、日中の屈辱が泥のようにへばりついている。
「あの薄汚い農民どもめ……。神の代理人たる私に恥をかかせおって……!」
ギリッと歯を鳴らすと、司祭は懐から手のひらサイズの黒い水晶玉を取り出した。それは高位の神官のみに支給される、遠距離通信用の魔道具である。
司祭がわずかに魔力を込めると、水晶玉は不気味な紫色の光を放ち、その表面に一人の男の顔を映し出した。
『……どうした。定時連絡の刻限ではないぞ』
水晶越しに響く声は、極めて静かで、しかし背筋が凍るような冷酷さを孕んでいた。
セレンヘイム大聖堂・最高神殿長。
マルセル・フォン・ガルニエ。
「マ、マルセル様! も、申し訳ございません。実は……」
司祭は冷や汗を流しながら、村人たちが暴動を起こし、寄付を拒否して自分を追い出したことを事細かに報告した。
報告を聞き終えたマルセルは、水晶の向こうで氷のように冷たい微笑を浮かべた。
『……村人は、金は出せないと申したのだな』
「は、はい! あのような教会の威光に逆らう異端の村など、直ちに討伐隊を派遣して火を放つべきかと……!」
『討伐隊など動かす必要はない』
マルセルの冷酷な言葉が、司祭の耳を打つ。
『神に捧げる金すら捻出できぬ村に、生かしておく価値はない。……滅ぼすしかないな』
『は、ははっ!』
『案ずるな。すでに手は打ってある。我らが主より借り受けた番犬たちが、ちょうど飢えている頃だ。すべて喰らい尽くしてもらうとしよう』
通信が終了し、黒い水晶玉は光を失ってただの冷たい石へと戻った。
「……ふん、下民共め。せいぜい今のうちに惰眠を貪るがいい」
司祭は忌々しげに水晶玉を懐へと収めると、闇に紛れて不気味に口元を歪めた。
その直後、城塞都市セレンヘイムの周辺に蠢いていた魔物たちが、一斉に禍々しい爪牙を動かし、進軍を開始した。
呪詛を帯びた漆黒の軍勢が、音もなく闇に溶け――
村を目指して街道を埋め尽くしていく。
司祭は村へと引き返すことはせず、森の境界の暗がりに身を潜め、援軍の到着をじっと待つことにした。
魔物たちがこの地に到達し、あの生意気な村を蹂躙するのは明日。
復讐の火の手が上がるその瞬間を、男は邪悪な笑みを浮かべながら、冷たい闇の中で待ち続けるのだった。




