第56話 強者の本能
冒険者ギルドに併設された酒場は、昼日中からアルコールと脂の匂い、そして荒くれ者たちの喧噪に満ちていた。
小山内誠一が情報収集のため席を外して、まだいくらも経っていない頃。
残された神代静とラッドのテーブルは、酷く酒臭い三つの影に囲まれていた。
「なあ、お嬢ちゃん。田舎から出てきたばかりなんだろ? こんなガキの世話なんてしてないで、俺たちが手取り足取り、この街のルールを教えてやるからさ。一緒にパーティを組もうぜ」
下卑た笑みを浮かべながら、男の一人が静の顔を覗き込む。
革鎧は手入れが行き届いておらず、帯びた剣の刃も欠けている。一目で、その日暮らしの底辺冒険者だと分かる風体だった。
静は、彼らの言葉が聞こえていないかのように、手元のティーカップへ視線を落とした。
迷宮や煉獄王ドレイル=マルバスとの戦いで「混沌の神」の片鱗すら垣間見た彼女にとって、この程度のチンピラに怯える理由など一つもない。
それに、助けを呼べば誠一が瞬時に駆け付けてくれることも知っている。
だが、静が動くより早く、隣のラッドが立ち上がった。
「俺たちは、別に冒険者になりにきたんじゃない。ご飯を食べてるんだ、迷惑だからどっか行けよ!」
小さな身体を精一杯大きく見せ、ラッドは男たちを真っ向から睨みつけた。
誠一に助けられ、その背中を追って旅に出た自分には、師匠の留守中に同行者を守る義務がある――そんな使命感が、少年の背筋をピンと伸ばしていた。
しかし、その純粋な勇気は、酔った荒くれ者たちの安いプライドに火をつける結果となった。
「……おい。今なんつった?」
「こっちが女の顔に免じて下手に出てりゃ、ガキの分際でつけあがりやがって」
男たちの顔からニヤついた笑みが消え、明確な害意へと変わる。
「弟の方に用はねぇんだよ。こいつはボコって裏の路地に捨ててこーぜ」
男の一人が太い腕を伸ばし、ラッドの首根っこを乱暴に掴み上げた。
足が宙に浮き、ラッドが苦しそうに顔を歪める。
静が冷ややかな目で男を睨み、指先に魔力を練り上げようとした――
まさにその時。
「おいおい、お前ら。そのへんにしとけよ」
低く、よく通る声が男たちの凶行を止めた。
声の主は、上質なミスリル製の胸当てを装備し、意匠の凝らされた長剣を帯びた三十代半ばの剣士だった。
引き締まった体格、隙のない身のこなし。ギルド内でも相当な実力と発言力を持つ高ランク冒険者――ブレインである。
「ぶ、ブレインさん!」
「す、すいやせん! ちょっとこのガキが生意気だったもんで……!」
先ほどまで威張り散らしていた三人は、ブレインの顔を見るなり縮み上がり、慌ててラッドを解放した。
ラッドがゲホゲホと咳き込みながら椅子に座り直すのを見て、ブレインは満足げに頷く。
「ここは酒場だ。女子供に手を出すような真似は感心しねぇな。……さて、と」
ブレインは三人を顎で払って追い払うと、そのまま静の方へ向き直った。
その口元には、先ほどのチンピラたちと本質的には変わらない、欲望を孕んだ笑みが浮かんでいる。
「へぇ、近くで見ると、ますますかわいい子じゃないか。おい女、俺があの馬鹿どもから助けてやったんだ。一晩、俺の相手をしてもらおうか?」
そう言って、静の滑らかな頬へと手を伸ばした――
その瞬間。
* * *
「――あの、俺の連れに何か?」
ブレインのすぐ真後ろ。
背中合わせになるほどの至近距離から、極めて穏やかで静かな声が響いた。
「っ……!?」
ブレインの腕が空中で硬直した。
心臓が早鐘を打ち、全身の毛穴から冷や汗が噴き出す。
彼ほどの腕利きであれば、背後に人が近づけば気配で察知できるはずだった。
だが声の主は、まるで“突然そこに現れた”かのように、気配を一切感じさせなかった。
それだけではない。
背中越しに伝わる、名状しがたい圧力。
――それは激しい怒りでも、血生臭い殺気でもない。
ただ純粋な、底なしの「強さ」の顕現。
もし今、振り返ろうとすれば。
もし伸ばした手をそのまま静に触れさせれば。
その瞬間、自分の首は胴体と泣き別れになる。
幾多の死線を越えてきたブレインの『生存本能』が、最大級の警鐘を鳴らしていた。
誠一は、あくまで自然体だった。
二十六年間、迷宮で死角から襲い来る魔物を躱し続けてきた彼にとって、気配を消して背後を取るなど息をするのと同じこと。
力をひけらかすつもりは毛頭なかったが、その身に染み付いた剣聖としての凄みは、中途半端に腕の立つ者ほど鋭敏に感じ取ってしまう。
ブレインは振り返れなかった。
恐怖で首が動かない。
「あ、ああ、いや……見慣れない女の子がいたから、きっとこの街に来たばかりなんだろうと思い、声をかけたんだが……。もう仲間がいたのか。こいつは俺の余計なお世話だったな」
背中を向けたまま、必死に平静を装って言い訳を並べ立てる。
額からは一筋の汗が流れ落ちていた。
「そうでしたか。気遣いには感謝しますが、彼女たちには俺がついています。世話を焼いてもらわなくても大丈夫だ」
誠一の静かな返答に、ブレインは心底安堵したように息を吐いた。
すぐに斬り捨てられることはない――
そう理解したからだ。
「ああ、そのようだな。……ところであんた、強いな」
ブレインは声だけを“熟練冒険者”のそれに切り替えた。
「まあ、人並みにはやれる自信はありますが」
「謙遜するなよ。背中越しでも分かる。どうだ、ここで冒険者になる気はないか? 最近、この辺りの商隊が襲われることが多くてな。手練れが一人でも多く必要なんだよ」
なんとか体裁を保ちながら立ち去る口実を作ろうと、ブレインは震える足に力を込めた。
「考えておきます。……行こう、神代さん。ラッド、無事だったか?」
「おう、師匠! 俺が静姉ちゃんを庇ったんだぜ!」
「……ええ、とても頼りになりましたよ、ラッド君。小山内さん、情報はどうでしたか?」
「ああ、それも宿で話そう」
誠一はラッドの頭を軽く撫で、静の荷物を持つと、ブレインに背を向けて酒場の出口へ歩き出した。
三人の背中が扉の奥に消えるまで、ブレインは一歩も動けなかった。
* * *
誠一たちが去り、平穏が戻った冒険者ギルド。
ブレインが力なく椅子にへたり込むと、先ほどまで彼に怯えていた三人の底辺冒険者が、にやつきながら集まってきた。
「さすがブレインさん、あの男の“自惚れ”を見抜いて商隊護衛の依頼に引き込むとは! エグいこと考えましたね」
男の一人が卑屈な笑みを浮かべ、ブレインの顔色を窺う。
「依頼の最中に、どさくさに紛れてあの生意気な男とガキを始末するんですね。そんでもって、その後にあの極上の女を俺たちで――」
バンッ!!
ブレインの拳が、テーブルの厚い木板を真っ二つに叩き割った。
酒場の客が一斉に静まり返り、三人の男はビクッと跳ね上がる。
「ぶ、ブレインさん……?」
「止めろ……」
ブレインは、怒鳴りつけるように言った。
だがそれは怒りではない。
瞳孔は開き、顔は青白く、唇は震えている。
「あの男に手を出すな……死ぬぞ」
絞り出された声は、本物の恐怖に満ちていた。
二十六年の迷宮生活で研ぎ澄まされた、あの理不尽な“死”の重圧。
それを直に浴びたブレインには分かっていた。
自分たちでは束になっても、あの男の足元にも及ばないということを。
「いいか、絶対に手を出すな……関わるな。あれは、人間の皮を被った化け物だ」
鬼気迫る忠告に、男たちはただ引きつった顔で頷くしかなかった。
ルドニアの街に、一陣の静かな嵐が通り過ぎていった。




