第52話 救済の代償
森を抜け、少年に案内された先には、傾きかけた西日に照らされた穏やかな農村が広がっていた。
黄金色に実りつつある麦畑、家々の煙突から立ち上る夕餉の煙。
誠一の目には、それは迷宮の孤独とは対極にある、ありふれた――しかし尊い平穏の象徴に見えた。
「こっちだよ、おっさん、お姉ちゃん!」
少年に導かれ、誠一と静は村の奥へと進む。
すれ違う村人たちは見慣れない旅人に警戒の視線を向けたが、少年――ラッドが元気に挨拶を返すと、皆ほっとしたように作業へ戻っていった。先ほど森で感じたような殺伐とした空気は、まだこの村には漂っていない。
たどり着いたのは、古びているが丁寧に手入れされた一軒の民家だった。
「ただいま! 父ちゃん、兄ちゃん!」
ラッドが勢いよく扉を開けると、中からがっしりとした体格の中年男性と、二十歳前後の青年が飛び出してきた。
「ラッド! お前、どこへ行っていたんだ!」
「森へ入ったのか!? あれほど危ないと言っただろう!」
父親のバルトと兄は、ラッドの無事を確認するなり厳しい口調で叱りつけた。
それは純粋に、幼い家族を案じる親心からの言葉だった。ラッドは縮こまりながらも、誠一たちを指差す。
「ごめん……。でも、母ちゃんの薬草を探してたら狼に襲われて。この人たちが助けてくれたんだ」
そこでようやく、二人は誠一と静の存在に気づいた。
バルトは慌てて居住まいを正し、深く頭を下げる。
「これは……失礼しました。息子の命を救っていただき、感謝に堪えません。私はこの家の主、バルトと申します」
「……小山内誠一と言います。こっちは連れの神代静。礼には及びませんよ。子供が一人で森から帰るのは危ないと思って、家まで送り届けただけです」
誠一は威圧感を与えないよう、努めて穏やかな声で応じた。
バルトに促され、二人は家の中へと招かれる。
奥の寝床では、ラッドの母親が青ざめた顔で荒い息を吐きながら横たわっていた。
足の包帯には血が滲み、かなりの高熱が出ているようだ。
「奥さん、ひどい状態ですね」
「ええ……。二週間前に農作業中に怪我をしてから、一向に良くならず……」
バルトは力なく首を振る。
誠一は腰のポーチから、青く澄んだ液体の入った小瓶――迷宮で手に入れたポーションを取り出した。
「これを使ってください。傷も熱も、すぐに引くはずです」
だが、誠一が差し出した瞬間、バルトの表情が凍りついた。
感謝の色は消え、代わりに強烈な「戸惑い」と「怯え」がその顔を支配する。
バルトは差し出された手を押し返すようにして、後ずさった。
「……申し訳ないが、その薬は受け取れません。すぐに、仕舞ってください」
「なぜですか? 奥さんの容態はかなり悪い。今にも限界に見えるが」
「それは……」
バルトは言葉を濁し、窓の外――
村の中央にある立派な屋敷の影へと視線を泳がせた。
「この村では、ヴァルザック司祭様の『治療』以外で薬を使うことは、厳しく禁じられているんです。どんなに効く薬であっても……司祭様を通さない癒やしは『神への裏切り』であり、邪教徒の業だと見なされてしまう」
誠一は眉をひそめた。
「治療を禁止? 司祭がそう言っているのか」
「二年前、あのお方が赴任されてから、村の掟となりました。もし掟を破れば、教会から『討伐隊』が呼ばれ、村全体が罰せられると……。妻のためにも司祭様を呼び、高額な寄付をして治療を受けたのですが、なかなか……」
話を総合すると――
ヴァルザックという司祭は、自らの地位を利用して村の医療を独占し、高額な寄付金を巻き上げている。
しかも、その「治療」とやらは一向に病状が改善しない、不完全なものらしい。
(……この平和に見える村には、かなりの歪みがあるようだな)
自分の力を誇示するために弱者の選択肢を奪い、依存させる。
それは信仰でも救済でもない。ただの搾取だ。
「ラッドが森に入ったのは、司祭様に内緒で、母親に効く薬草を探すためだったんだな」
誠一が問いかけると、ラッドは黙ってうなずいた。
バルトは「なんてことを……」と絶句し、再び顔を覆う。
彼らは司祭の言葉を信じているわけではない。ただ、逆らった時に受ける「制裁」を心底恐れているのだ。
「……神代さん。この村の現状、どう思う」
「最低ですね。病人を人質に取っているのと同じです」
静の瞳に、静かな怒りの炎が宿る。
誠一はポーションの瓶をそっとテーブルに置いた。
「バルトさん。これを今すぐ使えとは言わない。だが、奥さんの命を救えるのは、あなたの決断だけだ」
「旅の方、しかし……」
「安心してください。あなたたちが掟を破ったことにはさせない。その前にまず……俺が、その司祭と直接話をしてみましょう」
バルトは驚愕の表情を浮かべた。
「交渉されるというのですか? あのお方は教会の正式な代理人ですよ。旅人の言うことなど……」
「ええ。でも、話してみないことには何も始まらないでしょう」
誠一の声は穏やかだったが、その奥には二十六年の研鑽がもたらした揺るぎない確信が宿っていた。
ヴァルザックという男が、本当に神の奇跡を体現しているのか。
それとも、弱者を喰い物にするだけの寄生虫なのか。
誠一は村の中央に建つ立派な屋敷へと視線を向けた。
「神代さん、行こう」
誠一はあえて威圧感を抑え、一介の旅人として歩き出した。
村の平穏を乱すつもりはない。
だが、その平穏が誰かの犠牲の上に成り立つ偽物であるならば、弱者を救済するという自分の矜持にかけて看過するわけにはいかなかった。
夕闇が迫る村の道を、誠一は迷いのない足取りで司祭の家へと向かった。
背後で、ラッドたちが不安そうな眼差しで自分を見送っているのを感じながら。




