第51話 新たなる旅の始まり
雨上がりのように鮮やかな緑と、どこまでも続く黄金の街道。
二十六年間、迷宮の底で泥と血と暗闇だけを啜って生きてきた小山内誠一にとって、地上世界が放つ色彩の洪水は、いまだに目眩を覚えるほど眩しかった。
「小山内さん、見えてきました。あの山を越えれば、いよいよ国境です」
隣を並走する馬の上で、神代静が前方を指さす。
二人が目指しているのは、リュゼスト王国の隣国――商都連合『ルドニア』。
特定の王を戴かず、複数の商人ギルドが合議制で統治する自由都市国家である。金がすべてを支配する過酷な側面もあるが、そのぶん世界中の「情報」が最も集まる場所でもあった。
誠一たちがルドニアを目指す理由は明確だ。
――「魔王復活を企む邪教団の特定」。
それが、彼らの新たな旅の目的だった。
迷宮の終着点で『石』に願った復讐が叶えられた際、静は因果律の接触によって、世界の裏側で蠢く巨大な闇の片鱗を垣間見ていた。
魔王復活を目論む者たちは、決して表立って邪悪な旗を掲げているわけではない。
この世界で最も広く信仰されている「光の神・聖光竜ルミエル=アストラ」を崇める、正当な宗教組織の中枢をすでに乗っ取っているというのだ。
ルミエル教には大きく二つの宗派が存在する。
光の攻撃魔法のスキルを授かった『光王・天の突撃者アルディナ=ルクス』派。
光の回復魔法を加護とする『聖王・慈光の守護者ミリア=セレノス』派。
どの国の、どの宗派の中枢が「腐って」いるのか――それを突き止めるため、まずは情報の集積地であるルドニアへ向かう必要があった。
「急ごう。日が暮れる前に、せめて国境の近くまでは行っておきたい」
「はいっ」
世界の中枢にまで侵食している邪教徒たちの企みを阻止するため、二人は馬の腹を蹴り、さらに速度を上げた。
* * *
ルドニア領内に入り、街道を進んでいた時のことだ。
誠一と静が、同時に手綱を引き馬を止めた。
「――っ、小山内さん! 森から、微かな悲鳴が……!」
「ああ、俺も聞こえた。あれは――」
誠一の網膜に、視覚を超越した《魔力視》の光景が広がる。
森の奥深くで暴れ回る数匹の濁った魔力の淀みと、今にも消え入りそうな小さな生命の灯火。
次の瞬間、誠一は疾走する馬の背から音もなく飛び降りていた。
「神代さんはここで馬の番をしててくれ。すぐ終わらせる」
着地と同時にスキル《瞬足》を発動。
土を蹴る音すら置き去りにし、誠一は弾丸のような速度で森の奥へと突き進んだ。
鬱蒼とした木々の間で、一人の少年が地面にへたり込んでいた。
その周囲を、飢えた瞳をギラつかせた三頭のフォレストウルフが囲んでいる。
一頭の狼がヨダレを垂らしながら、少年の細い喉笛に喰らいつこうと跳躍した――まさにその刹那。
――閃刃。
音よりも早く、白銀の軌跡が空中に一本の線を引く。
誠一の右手に握られた愛刀《白兎牙》は、少年の視界を遮るよりも早く、跳躍した狼の首を正確に刎ね飛ばしていた。
残る二頭が仲間の死を認識する前に、誠一は手首を返し、流れるような歩法で間合いを詰める。
袈裟懸け、そして逆胴。
二十六年という途方もない時間を死地たる迷宮でのみ費やしてきた剣聖の太刀筋。
そこにあるのは、無駄を極限まで削ぎ落とし、ただ純粋に命を刈り取るためだけに研ぎ澄まされた「美しき暴力」だった。
三頭の狼がドサリと同時に崩れ落ちる。
少年にとっては、瞬きをする間にすべてが終わっていた。
* * *
「怪我はないか、少年」
誠一が刀を滑らかに鞘へと納めながら声をかけると、少年は腰を抜かしたまま、恐怖と驚愕の入り混じった顔で誠一を見上げた。
その腕と背中には、逃げる最中に魔物の爪で引っ掻かれたのか、深い裂傷が刻まれている。
パニックが収まり始め、ようやく痛みが意識に上ってきたようだった。
「あ、血が……痛っ……」
「動かないほうがいい。これを使いなさい――傷が治る」
誠一は腰のポーチから、青みがかった液体の入った小瓶――ポーションを取り出した。
迷宮内で仕留めた魔物を《劣化交換》し、大量にストックしてある代物だ。
誠一自身は回復魔法が使えないため、この手のアイテムは常に常備している。
ポーションの液体が傷口に触れた瞬間、淡い光と共に肉が塞がり、痛みが嘘のように引いていく。
少年は驚愕に目を丸くした。
「す、すごい……魔法の薬だ! なんだよ、おっさん――ひょっとして神殿の偉い人なのか!?」
「いや、ただの通りすがりの旅人だ。こんな森の奥で、一人で何をしてたんだ?」
「っ! そうだ、母ちゃん! おっさん、頼む! お願いだ! その凄い薬、少しでいいから分けてくれないか!? 母ちゃんが、ひどい怪我で……熱も出てるんだ!」
少年は泣きそうな顔で、誠一の外套の裾を力強く握りしめた。
どうやら、病床の母親を助けるための薬草を探して、危険な森に立ち入ってしまったらしい。
誠一は少しだけ思案する。
急ぎの旅ではある。
だが、必死に自分を見上げる少年の純粋な瞳に、誠一は小さくため息をついた。
(……困っている子供を、このまま見捨てることはできないな)
「分かった。案内してくれ。薬には少し余裕がある」
「ほんとか!? ありがとう、おっさん!」
誠一は周囲の安全を確認してから街道で待つ静と合流した。
そして少年の案内のもと、街道の先にあるという村へ向けて歩みを進めるのだった。




