監督官の過去
臨時配水の三日目、港の貯水槽には、ようやく底が見えないほどの水がたまっていた。
十分ではない。けれど、空の桶を抱えた人々が夜明け前から怒鳴り合うことはなくなった。水番たちは配水表を手に区域を回り、リセの工房には、順番の変更を求める者が理由を書いた紙を持って訪れるようになった。
紙に書かれた言葉は、時に人を黙らせる。誰が先に頼んだかではなく、何がいつまでに必要なのかを比べられるからだ。
その朝、ノアは配水記録を一枚ずつ確認していた。
「北区への水が、予定より二刻早く止まっています」
リセが記録を差し出すと、ノアは目を通した。
「水路係の報告では、南路へ切り替えたとある」
「南路にはまだ水が届いていません」
「見に行く」
ノアは立ち上がった。しかし、戸口へ向かう前に、工房の隅に置かれた古い木箱へ目をやった。
ほんの一瞬だったが、リセは気づいた。ノアの指が、外套の端を強くつかんでいる。
「どうしました」
「……何でもない」
そう答える声が、いつもより低かった。
二人が北区へ向かうと、水路の脇で老人が待っていた。空になった桶を並べ、怒りよりも疲れを顔に浮かべている。
「監督官、記録と違うぞ。水を止めた理由を聞かせてくれ」
「係には確認する」
「確認している間に、また止まる」
老人の言葉に、ノアは答えなかった。
リセは水路の底を見た。泥の上には、ついさっきまで流れていた水の跡がある。分水門の操作は、誰かが現場で行ったのだろう。
そのとき、路地の奥から年配の女が歩いてきた。
「……あんた、ノアだね」
女は彼の顔を見るなり、足を止めた。
「昔の水路事故のときも、あんたが責任者だった」
周囲の空気が変わった。
ノアの表情は動かなかったが、リセには分かった。彼の中で、固く閉ざされていたものが軋んだ。
「事故?」
リセが聞くと、女はためらいながら話した。
八年前、上流の水路が崩れ、夜のあいだに濁流が旧港区へ流れ込んだ。倉庫が一つ壊れ、二人の作業員がけがをした。そのとき水路監督をしていたノアが、門を開ける判断を誤ったとされた。彼は罰を受け、監督官の職を失いかけたが、町の水路が復旧するまで残されたという。
「私はあの夜、倉庫の裏にいた。門は、ノアが来る前に開いていたよ」
女は震える手で、古びた布包みを差し出した。
「でも、誰も聞かなかった。商会の人間が、記録を持って行ったからね」
ノアは布包みを受け取らなかった。
「あなたは、なぜ今まで黙っていた」
「黙っていたんじゃない。何度も言った。でも、事故のあと、証言を取りに来た役人は一度だけだった」
リセは女の顔を見つめた。声に嘘の形はなかった。ただし、彼女の力で読み取れるのは、記録された言葉の矛盾だけだ。記憶が正しいかどうかまでは分からない。
だから、すぐに断定してはいけない。
「記録は残っていますか」
女は首を振った。
「旧水路管理所に、写しがあったはずだ。事故の翌朝、私が見た。門を開けた時刻と、誰が鍵を持っていたかが書かれていた」
ノアが初めて女を見た。
「旧管理所は焼けた」
「表向きはね」
女は小さな声で続けた。
「焼ける前に、あんたの父親が帳面を運び出していた。私はそれを見た」
ノアの顔から血の気が引いた。
父親。その言葉を、リセは初めて聞いた。
工房へ戻る道で、ノアは何も話さなかった。配水表を持つ手が、歩くたびにわずかに揺れている。
「あなたは、事故の責任を認めたのですか」
リセが尋ねると、ノアはしばらく黙ってから答えた。
「認めたことにされた」
「違いは?」
「俺は、門を開けたのは自分だと署名した。だが、開けた時刻も、命令を受けた相手も書かれていなかった」
「なぜ署名を」
ノアは港の向こうを見た。霧の中で、古い灯台の影がぼんやりと立っている。
「弟が事故現場にいた。商会は、俺が認めなければ、家族に補償を出さないと言った。弟は助かったが、足を悪くした。俺は、町の水路を守るために責任を引き受けたつもりだった」
その言葉は、言い訳ではなかった。長い年月、何度も自分へ言い聞かせた結論のようだった。
リセは歩みを止めた。
「それは、あなたが無実だという証明にはなりません」
「分かっている」
「女の証言だけでも足りません」
「ああ」
「でも、記録があるなら探しましょう」
ノアが振り向いた。
「俺のために?」
「違います。今の水門にも、同じことが起きているからです。昔の事故で誰が責任を負ったのか分からなければ、商会はまた同じ手を使う」
リセは配水表を握り直した。
「それに、あなたが何をしたかは、あなた自身が決めて話してください。私が勝手に無実にするつもりはありません」
ノアは目を伏せ、短く息を吐いた。
「……旧管理所の記録は、父が持ち出した可能性がある。父の遺品は、旧灯台の倉庫に預けたままだ」
「では、そこへ行きます」
「危険かもしれない」
「危険だから、記録を先に探します」
ノアはしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
その日の夕暮れ、二人は灯台へ向かう準備を始めた。リセは紙と炭筆を、ノアは古い鍵束を用意した。
出発の直前、ノアが言った。
「見つからなかったら、俺の過去は変わらない」
「記録が見つかっても、過去そのものは変わりません」
リセは灯台の方へ視線を向けた。
「でも、過去に書かれた言葉が間違っているなら、今から読み直すことはできます」
ノアは答えなかった。ただ、彼女に渡された鍵束の中から、錆びた一本を選び取った。
その鍵には、古い水路管理所の印が残っていた。




