旧灯台の監査帳
旧灯台へ続く道は、潮の引いた浜に沿って伸びていた。
夕暮れの風は冷たく、灯台の白い壁を撫でて、細かな砂を二人の足元へ吹き寄せている。長く使われていない建物の窓は板で塞がれ、入口の錠には赤茶けた錆が浮いていた。
ノアは鍵束を一つずつ確かめ、古い水路管理所の印が刻まれた鍵を差し込んだ。
錠はすぐには回らなかった。
「壊しますか」
リセが炭筆を取り出しながら尋ねると、ノアは首を振った。
「壊せば、誰かに開けられたと言われる」
「ここまで来ても、記録を残すのですね」
「残す。俺が何をしたか、あとで説明できるように」
彼は鍵穴に油を差し、しばらく待ってから、ゆっくりと力をかけた。金属の軋む音が、暮れかけた浜に響く。
扉が開くと、湿った木材と古い油の匂いが流れ出した。
灯台の一階は空だった。壁際に壊れた滑車が並び、床には使われていない縄が積まれている。二階へ上がる階段の下に、父親の遺品を預けた倉庫があるらしい。
ノアは黙って奥へ進んだ。
倉庫の扉には、管理所の印ではなく、黒い塗料で数字が書かれていた。八年前の事故の年だ。
「誰が保管したか、記録はありますか」
「父が死ぬ前に、ここへ移したと聞いた。だが、俺は中を見ていない」
「なぜです」
「見る資格がないと思っていた」
ノアは扉の前で手を止めた。
リセは返事をしなかった。資格という言葉は、契約書にはよく現れる。誰が請求する資格を持つか。誰が補償を受ける資格を持たないか。多くの場合、それは権利を隠すために書かれていた。
「資格は、鍵を持つ人に与えられるものではありません」
リセが言うと、ノアは彼女を見た。
「では、何で決まる」
「必要かどうかです。今、見る必要がある」
ノアは鍵を回した。
中には、布に包まれた箱が三つあった。最初の箱には古い地図、二つ目には水門の図面、三つ目には帳面が何冊も入っていた。表紙の革は湿気で膨らみ、留め金には白い粉が吹いている。
リセは床に布を敷き、帳面を一冊ずつ並べた。
水路の点検簿。工事の支払記録。事故後に作られた聞き取り帳。
そして、一番下に、薄い灰色の表紙の帳面があった。
表紙には何も書かれていない。
リセが開くと、最初の頁に小さな文字があった。
旧水路管理所監査帳。記録責任者、エドガー・ヴァレン。
ノアの息が止まった。
「父の名前です」
頁には日付と水門番号、点検内容が整然と記されていた。八年前の事故の三週間前、上流第一水門について、同じ文が三度繰り返されている。
扉板、厚さ不足。既設の止水棒、摩耗。補強工事を要請。
しかし、その次の頁には、別の筆跡でこう書かれていた。
商会の指示により、補強工事を延期。代替として、開閉機構を簡略化。
リセは指で文字を追った。
記録の文章には、妙な食い違いがあった。工事を延期したのに、支払記録には補強材と作業員の費用が計上されている。さらに、事故当日の点検簿には「開閉機構、異常なし」とあるが、その前の頁で、機構を簡略化したことが明記されていた。
「これは、事故の前に水門が改造されていた記録です」
リセの声に、ノアは帳面を見つめた。
「簡略化しただけなら、事故の原因とは限らない」
「ええ。だから、これだけで断定はしません」
彼女は次の頁をめくった。
改造後の水門は、通常の操作では途中までしか閉じない。完全閉鎖には二人の作業員と補助棒が必要。補助棒は商会倉庫へ移管。
その下に、赤い線で囲まれた記述があった。
夜間操作時、責任者の立会いを要す。
ノアの顔が強張った。
「事故の夜、補助棒は倉庫にあった。俺は現場へ呼ばれたとき、門はすでに開いていた。閉めようとしたが、棒がなくて動かなかった」
「事故報告書では、あなたが単独で門を開けたことになっていました」
「そうだ」
「この帳面には、あなたが門を操作する前から、完全閉鎖できない状態だったと書かれています」
ノアは答えなかった。
リセはさらに頁をめくった。帳面の後半には、支出の一覧が続いていた。補強材の代金、作業員への支払い、搬出費。どれも事故の前に支払われている。
だが、補強工事を行った現場の署名欄は空白だった。
「工事は実施されていません」
「金だけが動いた」
「そのようです。ただし、支払記録だけでは誰が持ち逃げしたかまでは分かりません」
帳面の最後の頁には、父親の筆跡で短い文章が残されていた。
この改造を承認した者は、事故の責任を現場へ転嫁するつもりである。原本を安全な場所へ移す。監査帳を失えば、町の記録は商会の言葉だけになる。
その下に、日付と署名があった。事故の二日前だった。
ノアは帳面に触れようとして、手を引いた。
「父は、これを残すために……」
「あなたへ渡すつもりだったのかもしれません」
「なら、なぜ言わなかった」
「言えなかったのではありませんか。持っていると知られれば、あなたも補償を失い、弟さんも危険にさらされた」
ノアはしばらく目を閉じた。
外で、灯台の古い風見が軋んだ。
「俺は父を恨んでいた。何も説明せず、事故のあと町を出たと思っていた」
「出たのではなく、隠したのかもしれません」
「それでも、俺は署名した」
「ええ」
リセは帳面を閉じなかった。
「あなたが署名した事実は消えません。でも、署名に書かれていない条件まで、あなたの責任にすることはできません」
ノアはゆっくりと頷いた。
「これを町へ持ち帰る」
「原本だけでは危険です。写しを作ります」
「商会に奪われる」
「だから、複数に分けます。工房の仲間にも見せる。水門の図面と支払記録を照合し、誰でも読める形にする」
リセは帳面を包むための布を広げた。
そのとき、灯台の外で小石を踏む音がした。
二人は同時に振り向いた。
扉の隙間から、消えかけた夕日の中に人影が見える。ひとつではない。砂を踏む足音が、浜の方から近づいていた。
ノアは帳面を抱え、リセの前に立った。
「裏口があります」
「逃げますか」
リセは炭筆を握り直した。
「記録を持って帰るだけなら、逃げても構いません。でも、誰がここへ来たのかを記録しないままにはできない」
ノアは一瞬だけ彼女を見た。
そして、帳面を布に包みながら答えた。
「なら、見届ける」
旧灯台の扉が、外からゆっくりと押された。




