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契約の余白を読む娘は、港町で水路監督官と明日を結ぶ  作者: 銀細工ナギ


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10/20

旧灯台の監査帳

 旧灯台へ続く道は、潮の引いた浜に沿って伸びていた。


 夕暮れの風は冷たく、灯台の白い壁を撫でて、細かな砂を二人の足元へ吹き寄せている。長く使われていない建物の窓は板で塞がれ、入口の錠には赤茶けた錆が浮いていた。


 ノアは鍵束を一つずつ確かめ、古い水路管理所の印が刻まれた鍵を差し込んだ。


 錠はすぐには回らなかった。


「壊しますか」


 リセが炭筆を取り出しながら尋ねると、ノアは首を振った。


「壊せば、誰かに開けられたと言われる」


「ここまで来ても、記録を残すのですね」


「残す。俺が何をしたか、あとで説明できるように」


 彼は鍵穴に油を差し、しばらく待ってから、ゆっくりと力をかけた。金属の軋む音が、暮れかけた浜に響く。


 扉が開くと、湿った木材と古い油の匂いが流れ出した。


 灯台の一階は空だった。壁際に壊れた滑車が並び、床には使われていない縄が積まれている。二階へ上がる階段の下に、父親の遺品を預けた倉庫があるらしい。


 ノアは黙って奥へ進んだ。


 倉庫の扉には、管理所の印ではなく、黒い塗料で数字が書かれていた。八年前の事故の年だ。


「誰が保管したか、記録はありますか」


「父が死ぬ前に、ここへ移したと聞いた。だが、俺は中を見ていない」


「なぜです」


「見る資格がないと思っていた」


 ノアは扉の前で手を止めた。


 リセは返事をしなかった。資格という言葉は、契約書にはよく現れる。誰が請求する資格を持つか。誰が補償を受ける資格を持たないか。多くの場合、それは権利を隠すために書かれていた。


「資格は、鍵を持つ人に与えられるものではありません」


 リセが言うと、ノアは彼女を見た。


「では、何で決まる」


「必要かどうかです。今、見る必要がある」


 ノアは鍵を回した。


 中には、布に包まれた箱が三つあった。最初の箱には古い地図、二つ目には水門の図面、三つ目には帳面が何冊も入っていた。表紙の革は湿気で膨らみ、留め金には白い粉が吹いている。


 リセは床に布を敷き、帳面を一冊ずつ並べた。


 水路の点検簿。工事の支払記録。事故後に作られた聞き取り帳。


 そして、一番下に、薄い灰色の表紙の帳面があった。


 表紙には何も書かれていない。


 リセが開くと、最初の頁に小さな文字があった。


 旧水路管理所監査帳。記録責任者、エドガー・ヴァレン。


 ノアの息が止まった。


「父の名前です」


 頁には日付と水門番号、点検内容が整然と記されていた。八年前の事故の三週間前、上流第一水門について、同じ文が三度繰り返されている。


 扉板、厚さ不足。既設の止水棒、摩耗。補強工事を要請。


 しかし、その次の頁には、別の筆跡でこう書かれていた。


 商会の指示により、補強工事を延期。代替として、開閉機構を簡略化。


 リセは指で文字を追った。


 記録の文章には、妙な食い違いがあった。工事を延期したのに、支払記録には補強材と作業員の費用が計上されている。さらに、事故当日の点検簿には「開閉機構、異常なし」とあるが、その前の頁で、機構を簡略化したことが明記されていた。


「これは、事故の前に水門が改造されていた記録です」


 リセの声に、ノアは帳面を見つめた。


「簡略化しただけなら、事故の原因とは限らない」


「ええ。だから、これだけで断定はしません」


 彼女は次の頁をめくった。


 改造後の水門は、通常の操作では途中までしか閉じない。完全閉鎖には二人の作業員と補助棒が必要。補助棒は商会倉庫へ移管。


 その下に、赤い線で囲まれた記述があった。


 夜間操作時、責任者の立会いを要す。


 ノアの顔が強張った。


「事故の夜、補助棒は倉庫にあった。俺は現場へ呼ばれたとき、門はすでに開いていた。閉めようとしたが、棒がなくて動かなかった」


「事故報告書では、あなたが単独で門を開けたことになっていました」


「そうだ」


「この帳面には、あなたが門を操作する前から、完全閉鎖できない状態だったと書かれています」


 ノアは答えなかった。


 リセはさらに頁をめくった。帳面の後半には、支出の一覧が続いていた。補強材の代金、作業員への支払い、搬出費。どれも事故の前に支払われている。


 だが、補強工事を行った現場の署名欄は空白だった。


「工事は実施されていません」


「金だけが動いた」


「そのようです。ただし、支払記録だけでは誰が持ち逃げしたかまでは分かりません」


 帳面の最後の頁には、父親の筆跡で短い文章が残されていた。


 この改造を承認した者は、事故の責任を現場へ転嫁するつもりである。原本を安全な場所へ移す。監査帳を失えば、町の記録は商会の言葉だけになる。


 その下に、日付と署名があった。事故の二日前だった。


 ノアは帳面に触れようとして、手を引いた。


「父は、これを残すために……」


「あなたへ渡すつもりだったのかもしれません」


「なら、なぜ言わなかった」


「言えなかったのではありませんか。持っていると知られれば、あなたも補償を失い、弟さんも危険にさらされた」


 ノアはしばらく目を閉じた。


 外で、灯台の古い風見が軋んだ。


「俺は父を恨んでいた。何も説明せず、事故のあと町を出たと思っていた」


「出たのではなく、隠したのかもしれません」


「それでも、俺は署名した」


「ええ」


 リセは帳面を閉じなかった。


「あなたが署名した事実は消えません。でも、署名に書かれていない条件まで、あなたの責任にすることはできません」


 ノアはゆっくりと頷いた。


「これを町へ持ち帰る」


「原本だけでは危険です。写しを作ります」


「商会に奪われる」


「だから、複数に分けます。工房の仲間にも見せる。水門の図面と支払記録を照合し、誰でも読める形にする」


 リセは帳面を包むための布を広げた。


 そのとき、灯台の外で小石を踏む音がした。


 二人は同時に振り向いた。


 扉の隙間から、消えかけた夕日の中に人影が見える。ひとつではない。砂を踏む足音が、浜の方から近づいていた。


 ノアは帳面を抱え、リセの前に立った。


「裏口があります」


「逃げますか」


 リセは炭筆を握り直した。


「記録を持って帰るだけなら、逃げても構いません。でも、誰がここへ来たのかを記録しないままにはできない」


 ノアは一瞬だけ彼女を見た。


 そして、帳面を布に包みながら答えた。


「なら、見届ける」


 旧灯台の扉が、外からゆっくりと押された。

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