逃げない審議
旧灯台の扉が、軋みながら内側へ押し開けられた。
ノアは帳面を胸に抱え、リセを背にかばった。倉庫の奥には、海へ抜ける裏口がある。だが、そこへ向かうには、入ってきた者たちの脇を通らなければならない。
「監査帳を渡せ」
外から男の声がした。
声を聞いた瞬間、リセは商会の代理人を思い出した。市場で彼女を詐欺師と呼んだ男の声ではない。もっと低く、乾いている。けれど、命令することに慣れた響きだった。
「誰ですか」
ノアが尋ねる。
「水路管理所の臨時調査員だ。旧灯台に不審者が侵入したとの通報を受けた」
「調査員なら、身分証と調査命令を見せてください」
ノアの声は静かだった。
扉の向こうで、舌打ちが聞こえた。
「中にある帳面は町の所有物だ。持ち出すなら、今すぐ渡せ」
「町の所有物なら、正式な受け渡し記録が必要です」
「面倒な男だな。お前はもう管理官ではない。事故の責任を負った者が、記録を隠していたと知れれば、今度こそ逃げられないぞ」
ノアの指が、帳面の革表紙を強く押さえた。
リセは彼の横顔を見た。怒りではなく、古い傷に触れられたときの痛みが浮かんでいた。
「ノア」
「裏口へ行け」
「でも」
「俺が時間を稼ぐ」
彼が一歩前へ出ようとしたとき、リセはその袖をつかんだ。
「逃げれば、彼らの言葉が記録になります」
「ここに残れば、帳面を奪われる」
「なら、奪えない形にします」
リセは床に置かれた水門の図面を拾い上げた。帳面そのものはノアが抱えている。図面と支払記録を分ければ、すべてを一度に奪われることはない。
「帳面を持って裏口へ。私はここに残ります」
「許可しない」
「これは命令ですか」
「違う」
「なら、私の判断を止めないでください」
ノアは言葉を失った。
リセは炭筆を取り出し、灯台の壁に大きく時刻を書いた。夕刻、旧灯台入口を複数の男が包囲。身分証の提示なし。監査帳の引き渡しを要求。発言者、未確認。
扉の向こうがざわめいた。
「何をしている」
「記録です。あなたたちが正式な命令を持たず、町の証拠を奪おうとしていることの」
「そんなものは証拠にならん」
「審議で判断されます」
「審議だと?」
「町には評議会があります。水利権の扱いを決める正式な場もある。あなたたちが本当に調査員なら、そこへ証拠を提出できるはずです」
しばらく沈黙が続いた。
男たちは、リセが怯えていると思っていたのだろう。けれど彼女の手は震えていなかった。契約文に触れたときのような確信があるわけではない。壁に残した文字が、誰かの判断を縛る力を持つのかも分からない。
それでも、書かなければ始まらなかった。
外で金属の擦れる音がした。錠を壊そうとしている。
ノアが裏口の扉を開けた。
「行くぞ」
「一緒に?」
「一緒だ」
「帳面を持って逃げるのではなく?」
「違う。町へ戻る」
ノアは灯台の入口へ顔を向けた。
「王都へ送るつもりだった。だが、途中で奪われる。王都に届くまで、俺たちは追われ続ける」
「では、どうします」
「町の正式な審議に出す」
その言葉には、ためらいがなかった。
「商会は審議を止められます」
「止めようとした記録を残す」
「偽の証人を立てるかもしれません」
「なら、証言を増やす」
「ノアがまた責任を負わされるかもしれない」
「今度は、俺一人の署名ではない」
彼は帳面を布で包み直した。
「これは町の水を奪った話だ。王都へ逃げて判断を求めるより、奪われた町で、奪った者の前に出す」
入口の木が大きく鳴った。
リセは壁の記録を振り返った。炭の線は細く、風が吹けば消えてしまいそうだった。
「審議の日まで、帳面を隠しますか」
「隠す。ただし、隠した場所を三人以上に知らせる」
「工房の仲間と、水番の長。それから?」
「評議会の書記」
リセは頷いた。
「写しも作ります。原本がなくても、記録が残るように」
「危険だ」
「分かっています」
ノアは彼女を見た。
「怖くないのか」
「怖いです」
リセは正直に答えた。
「でも、怖いから王都へ送るだけでは、誰かに運命を預けることになります。私はもう、誰かが書いた言葉だけで責任を決められたくない」
ノアはしばらく黙っていた。
やがて、裏口の先へ足を踏み出す。
「なら、審議まで生きて戻る」
「それも記録に書きますか」
「書け」
リセは炭筆を壁へ走らせた。
旧灯台にて、監査帳の引き渡し要求を受ける。ノア・ヴァレンは逃走せず、町の正式な審議に提出することを決定。リセ・アルトは、その判断に同意する。
最後の一文を書き終えたとき、入口の扉が破られた。
二人は裏口から浜へ出た。潮の匂いを含んだ風が、古い灯台の中から押し寄せてくる。
遠くに町の灯が見えた。
追手の足音が砂を踏み、背後から近づいてくる。
ノアは走り出した。リセも並んで走る。
逃げるためではない。
逃げない審議を、町へ届けるために。




