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契約の余白を読む娘は、港町で水路監督官と明日を結ぶ  作者: 銀細工ナギ


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11/20

逃げない審議

 旧灯台の扉が、軋みながら内側へ押し開けられた。


 ノアは帳面を胸に抱え、リセを背にかばった。倉庫の奥には、海へ抜ける裏口がある。だが、そこへ向かうには、入ってきた者たちの脇を通らなければならない。


「監査帳を渡せ」


 外から男の声がした。


 声を聞いた瞬間、リセは商会の代理人を思い出した。市場で彼女を詐欺師と呼んだ男の声ではない。もっと低く、乾いている。けれど、命令することに慣れた響きだった。


「誰ですか」


 ノアが尋ねる。


「水路管理所の臨時調査員だ。旧灯台に不審者が侵入したとの通報を受けた」


「調査員なら、身分証と調査命令を見せてください」


 ノアの声は静かだった。


 扉の向こうで、舌打ちが聞こえた。


「中にある帳面は町の所有物だ。持ち出すなら、今すぐ渡せ」


「町の所有物なら、正式な受け渡し記録が必要です」


「面倒な男だな。お前はもう管理官ではない。事故の責任を負った者が、記録を隠していたと知れれば、今度こそ逃げられないぞ」


 ノアの指が、帳面の革表紙を強く押さえた。


 リセは彼の横顔を見た。怒りではなく、古い傷に触れられたときの痛みが浮かんでいた。


「ノア」


「裏口へ行け」


「でも」


「俺が時間を稼ぐ」


 彼が一歩前へ出ようとしたとき、リセはその袖をつかんだ。


「逃げれば、彼らの言葉が記録になります」


「ここに残れば、帳面を奪われる」


「なら、奪えない形にします」


 リセは床に置かれた水門の図面を拾い上げた。帳面そのものはノアが抱えている。図面と支払記録を分ければ、すべてを一度に奪われることはない。


「帳面を持って裏口へ。私はここに残ります」


「許可しない」


「これは命令ですか」


「違う」


「なら、私の判断を止めないでください」


 ノアは言葉を失った。


 リセは炭筆を取り出し、灯台の壁に大きく時刻を書いた。夕刻、旧灯台入口を複数の男が包囲。身分証の提示なし。監査帳の引き渡しを要求。発言者、未確認。


 扉の向こうがざわめいた。


「何をしている」


「記録です。あなたたちが正式な命令を持たず、町の証拠を奪おうとしていることの」


「そんなものは証拠にならん」


「審議で判断されます」


「審議だと?」


「町には評議会があります。水利権の扱いを決める正式な場もある。あなたたちが本当に調査員なら、そこへ証拠を提出できるはずです」


 しばらく沈黙が続いた。


 男たちは、リセが怯えていると思っていたのだろう。けれど彼女の手は震えていなかった。契約文に触れたときのような確信があるわけではない。壁に残した文字が、誰かの判断を縛る力を持つのかも分からない。


 それでも、書かなければ始まらなかった。


 外で金属の擦れる音がした。錠を壊そうとしている。


 ノアが裏口の扉を開けた。


「行くぞ」


「一緒に?」


「一緒だ」


「帳面を持って逃げるのではなく?」


「違う。町へ戻る」


 ノアは灯台の入口へ顔を向けた。


「王都へ送るつもりだった。だが、途中で奪われる。王都に届くまで、俺たちは追われ続ける」


「では、どうします」


「町の正式な審議に出す」


 その言葉には、ためらいがなかった。


「商会は審議を止められます」


「止めようとした記録を残す」


「偽の証人を立てるかもしれません」


「なら、証言を増やす」


「ノアがまた責任を負わされるかもしれない」


「今度は、俺一人の署名ではない」


 彼は帳面を布で包み直した。


「これは町の水を奪った話だ。王都へ逃げて判断を求めるより、奪われた町で、奪った者の前に出す」


 入口の木が大きく鳴った。


 リセは壁の記録を振り返った。炭の線は細く、風が吹けば消えてしまいそうだった。


「審議の日まで、帳面を隠しますか」


「隠す。ただし、隠した場所を三人以上に知らせる」


「工房の仲間と、水番の長。それから?」


「評議会の書記」


 リセは頷いた。


「写しも作ります。原本がなくても、記録が残るように」


「危険だ」


「分かっています」


 ノアは彼女を見た。


「怖くないのか」


「怖いです」


 リセは正直に答えた。


「でも、怖いから王都へ送るだけでは、誰かに運命を預けることになります。私はもう、誰かが書いた言葉だけで責任を決められたくない」


 ノアはしばらく黙っていた。


 やがて、裏口の先へ足を踏み出す。


「なら、審議まで生きて戻る」


「それも記録に書きますか」


「書け」


 リセは炭筆を壁へ走らせた。


 旧灯台にて、監査帳の引き渡し要求を受ける。ノア・ヴァレンは逃走せず、町の正式な審議に提出することを決定。リセ・アルトは、その判断に同意する。


 最後の一文を書き終えたとき、入口の扉が破られた。


 二人は裏口から浜へ出た。潮の匂いを含んだ風が、古い灯台の中から押し寄せてくる。


 遠くに町の灯が見えた。


 追手の足音が砂を踏み、背後から近づいてくる。


 ノアは走り出した。リセも並んで走る。


 逃げるためではない。


 逃げない審議を、町へ届けるために。

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