配水順を決める日
翌朝、港町の鐘が六度鳴る前に、工房の戸を叩く音がした。
リセが開けると、水番の老人と、井戸を使う女たち、それに市場の荷運び人が立っていた。皆、眠れていない顔をしている。
「運河の水が、昨夜からほとんど来ていない」
老人が言った。
「上流の分水門が閉じたままだ。井戸も列ができている。誰に水を回すかで、朝から喧嘩だ」
リセは工房の奥を振り返った。マーヤは帳面を抱え、ノアはすでに外套を着ていた。
「分水門は、誰が閉めたのですか」
「商会の水路係だと言っている者もいる。だが、係の姿を見た者はいない」
ノアが低く言った。
「今朝の配水記録には、閉門の指示がない」
「記録がないのに、水が止まっている?」
「だから、現場を見に行く」
ノアはそう言ったが、老人は首を振った。
「見に行く間にも、町の水桶は空になる。市場では魚を洗う水がなく、染物屋は仕事を止めた。農家は今日の分を待っている」
リセは工房の壁に掛けられた町の水路図を見た。
運河から分かれる水路は四本あった。市場へ向かう水路、工房の並ぶ南路、農地へ続く水路、そして港の貯水槽へ入る水路。普段なら順番を決めずとも流れは足りる。しかし今は、一本へ水を送れば別の一本が干上がる。
「水を同時に配れないなら、順番を決めます」
リセが言うと、女の一人が不安そうに眉を寄せた。
「誰が先になるんだい。市場か、農家か、それとも金を払える家かい」
「金額で決めてはいけません」
「では何で?」
問われて、リセは水路図の横に白紙を置いた。
「止まれば、取り返しのつかない場所からです。飲み水を使う貯水槽、次に家畜と病人のいる区域。その後に、今日中に処理しないと腐る市場の荷。農地と工房は、作業をずらせる時間を確認して配ります」
ノアが地図を見た。
「港の貯水槽は、昼までに空になる。南路は染料の仕込みがあるが、一日なら遅らせられる。農地は苗床がある。ただし、今夜までに水がなければ枯れる」
「市場は?」
マーヤが尋ねた。
「魚の洗い水は午前中に必要です。でも、飲み水の桶を優先するなら、魚商には港の貯水槽から一定量を分けてもらえます」
リセは人々の顔を見回した。
「配水順を決めるには、使う量と期限を紙に書く必要があります。誰かの言い分だけでは、また商会のように、後から都合よく変えられる」
「紙を書いている間に、喉が渇くよ」
「だから、今すぐ仮の順番を決めます。正式な記録は、流しながら作る」
彼女は大きく文字を書いた。
一、港の貯水槽へ、午前八時まで。
二、病人と家畜のいる北区へ、午前九時から。
三、市場の洗浄用水を、午前十時から正午まで。
四、農地の苗床へ、正午から日暮れまで。
五、南路の工房は、残った水を共同で受ける。
「工房を最後にするのか」
染物屋の若い職人が声を上げた。
「私たちだって仕事がある」
「分かっています。でも、染料は蓋をして保てると聞きました。違いますか」
「……一日なら」
「農地の苗床は、今日を逃すと数日分の手間が無駄になります。工房は遅らせる。市場は腐敗を防ぐ分だけ受け取る。これは私の判断です。異議があるなら、理由と必要な量を言ってください」
職人は口を閉じた。代わりに隣の女が手を挙げた。
「北区の病人は三人だけじゃない。老人もいる。桶を持っていけない家には、誰が運ぶんだい」
「水番の方々にお願いできますか」
「人手が足りない」
ノアが答えた。
「水路係を二人ずつ各区域へ出す。配水の見張りも兼ねる」
「監督官が命じるのかい?」
誰かが疑うように聞いた。
「命じるだけでは足りない」
ノアは淡々と言った。
「今から全員の前で記録する。配水量、開始時刻、終了時刻、立ち会った者の名前を残す。水路係が勝手に順番を変えたら、記録と照合できる」
リセは彼を見た。昨日までなら、ノアは現場の判断を自分だけで抱え込んでいたかもしれない。だが今日は、誰もが見られる紙を差し出そうとしている。
「この順番は、運河に十分な水が来るまでの臨時案です」
リセは皆に向かって言った。
「水が増えたら変えます。減ったら、変更の理由を書きます。私が間違えていると思ったら、隠れて文句を言うのではなく、ここへ来てください。必要な量と期限を一緒に確認します」
沈黙の後、老人が頷いた。
「それなら、うちの水番を出そう」
魚商の親子も、港の貯水槽へ桶を運ぶ役を引き受けた。染物屋の職人は、工房仲間と交代で南路を見張ると言った。
紙一枚で、喉の渇きが消えるわけではない。だが、誰かの都合で水が奪われる不安は、わずかに薄れた。
ノアとリセは分水門へ向かった。道の両側には空の桶が並び、人々は不安そうに水路を見ていた。
「本当に、これで足りるでしょうか」
リセが歩きながら聞くと、ノアは首を横に振った。
「足りない」
「即答ですね」
「水量は、決めた順番を全部満たすほどない。だが、何も決めなければ、声の大きい者から取る」
リセは手にした記録紙を押さえた。
「では、足りない分も書きます」
「ああ」
「不足を隠さないことも、配水順の一部です」
分水門へ着くと、門扉の鎖には新しい錠が掛かっていた。錠の表面には、グレイヴ商会の印が刻まれている。
ノアの目が険しくなる。
「閉門の指示はないと言いましたね」
「記録上はない」
リセは錠に触れた。冷たい金属の奥から、書かれた条件の食い違いがかすかに伝わってくる。
彼女は目を閉じ、刻印の下に貼られた小さな紙片を見た。
「これは、配水不足の緊急措置だと書いてあります」
「ならば、閉門の理由がある」
「いいえ。ここには、『町の承認を得た場合に限る』とも書かれています。でも、承認した者の名前がない。しかも、期限が空欄です」
ノアは錠を見つめた。
「また、空白か」
「空白は、誰かが勝手に埋めるためにあるのかもしれません」
遠くで、市場の鐘が鳴った。臨時の配水が始まる時刻だった。
ノアは鍵を取り出した。
「まずは水を流す」
「錠を壊すのですか」
「壊さない。記録を残して開ける」
彼は立ち会いの老人に時刻を読ませ、リセは紙へ書き込んだ。錠が外れ、重い門扉が軋む。
乾いた水路の底に、最初の水が細く走った。
人々の歓声は小さかった。まだ十分ではないと、皆が知っていたからだ。それでも水は、決められた順番に従って町へ向かった。
リセは記録紙の端に、今日の日付と自分の名を書いた。
臨時配水順。提案者、リセ。
誰かに任せるための紙ではない。自分が決め、その結果を引き受けるための紙だった。




