売られた水利権
夜の港町には、昼間とは別の音があった。
荷車の軋みも、魚を売る声も消え、倉庫の屋根を風が撫でている。リセはノアの後ろを歩きながら、昼に見た分水門の錠を思い出していた。鍵がある限り、門は開かない。あの作業員の言葉は、まだ耳の奥に残っている。
「商会の倉庫へ入るのですか」
「鍵の記録を探すだけだ」
「見つからなかったら?」
「見つかるまで探す」
ノアは南倉庫の裏手で足を止めた。壁には商会の紋章が描かれ、扉には二重の錠が掛かっている。だが、ノアが指したのは扉ではなかった。
「ここに昔の管理室がある」
積まれた木箱の裏に、錆びた小扉が隠れていた。ノアは持ってきた鉄具を差し込み、留め金を押し上げた。小さな音がして扉が開く。
「監督官が勝手に商会へ入っていいのですか」
「管理契約には、施設の監査権限がある」
「その契約書を、今ここで見せられますか」
ノアは答えなかった。
中は狭く、古い帳簿と空の木箱が積まれていた。壁際には鍵を掛けるための板があり、いくつもの釘に番号札が吊るされている。分水門の番号と同じ札は、途中から切り取られていた。
「抜き取った跡があります」
リセは釘の周囲を照らした。木の表面だけが新しく削られている。
「鍵を持ち出した記録も?」
「管理台帳があるはずだ」
ノアは棚を探り、厚い帳面を引き出した。表紙には「港湾施設・貸与記録」とある。ページをめくると、鍵の番号、貸し出した日、返却日、担当者の署名が並んでいた。
分水門の鍵番号は、十年前の記録にあった。貸出先は「町水路役所」。返却欄には、赤い線が一本引かれている。その翌年から、同じ番号の鍵が「南岸倉庫管理部」へ移されていた。
「貸与ではありません」
リセは欄外の小さな文字を読んだ。
「『管理権限に伴う保管変更』とあります。返却日もありません」
「権限を商会へ移した、ということか」
「ただし、移した人の署名がありません」
彼女は帳面に触れた。指先に、いつもの冷たい痛みが走る。
書かれていない条件の矛盾は、言葉の間から浮かび上がる。
管理権限。保管変更。返却日の欠落。
それらは単なる事務上の省略ではなかった。ある文章を成立させるために、別の文章が意図的に消されている。
「この記録は、契約を根拠にしていません」
「何?」
「管理権限に伴う、と書くなら、権限を定めた契約が前にあるはずです。でも、この帳面には契約番号がありません。契約番号がないのに、保管だけが変更されている」
ノアは黙って帳面を受け取った。
そのとき、外で砂利を踏む音がした。
ノアがリセの肩を引き、棚の陰へ押し込む。扉の隙間から灯りが差し込み、男の声が聞こえた。
「誰か入ったか?」
「錠は掛かっている。猫でも迷い込んだんだろう」
二人の男が管理室へ入ってきた。片方が棚を開け、帳簿の位置を確かめる。リセは息を殺した。ノアの手が、彼女の手首をそっと押さえている。逃げるな、という合図だった。
「明日の朝、古い契約書を本店へ送る」
「例の水利証書もか?」
「当たり前だ。町の連中が騒いでも、売買はもう済んでいる」
「水利権を売って、本当に問題にならないのか」
「問題になる前に、記録を整える。十年前の更新契約に、譲渡条項があることにすればいい」
男たちが笑った。
リセの胸の奥で、何かが落ちた。
水が止められていた理由は、船の都合だけではない。町が使う水そのものが、すでに誰かの所有物として扱われていたのだ。
「証書はどこだ」
「本店へ送る箱の底だ。分水門の旧記録と一緒にしておけ。あれがあれば、町の水利権を買った証明になる」
男たちは帳簿を閉じ、出ていった。
足音が遠ざかるまで、ノアは動かなかった。やがて彼は棚の陰から出て、扉の外を確認する。
「聞いたな」
「ええ」
「水利権を売った、と」
「売ったのではなく、売られたのです。町の誰も知らないまま」
リセは帳面を抱えた。だが、これだけでは足りない。男たちは、十年前の更新契約に譲渡条項があることにすればいい、と言った。つまり、まだその条項は存在しない。
「本店へ送られる前に、証書を見つけましょう」
「今夜、箱を探す」
「見つけたら?」
「持ち出す」
「それは証拠を盗むことになります」
「町の水を盗んだ者から、取り戻すだけだ」
ノアの声には、珍しく怒りが混じっていた。
管理室を出ると、海から冷たい風が吹いた。二人は倉庫の裏に置かれた荷箱を一つずつ調べた。やがて、底板の釘だけが新しい箱を見つける。
ノアが鉄具で板を外す。
中には油紙に包まれた書類があった。表紙には、古い町印と商会の印が押されている。
リセは震える指で契約書を開いた。
本文には、運河の維持管理を商会へ委託する、とある。水利権の譲渡については、どこにも書かれていない。
だが、最後の頁だけが不自然に厚かった。
リセが紙の端をなぞると、隠されていた折り込みが現れた。そこには細い文字で、こう記されている。
――本契約に付随する水利権その他一切の使用権は、商会が指定する第三者へ譲渡できるものとする。
その下に、町長の印があった。
リセは息を呑んだ。
「隠し条項……」
「読めるか」
「はい。ただし、これは町が水を売った契約ではありません」
「どう違う」
「譲渡できる、としか書いていない。誰に、どの範囲を、いくらで譲渡するのかがない。しかも、この条項は本文と同じ頁に続いていません。後から綴じ足されています」
ノアが契約書を受け取った。
その瞬間、遠くで鐘が鳴った。見張りが異変に気づいたのだろう。倉庫の向こうから、複数の足音が近づいてくる。
「逃げます」
「証書を持っていけ」
「あなたは?」
「俺が時間を稼ぐ」
ノアが立ち上がった。
リセは首を振った。
「一人で残る約束はしていません」
「危険だ」
「だから二人で行きます」
彼女は契約書を外套の内側へしまった。町の水は、知らぬ間に売られていた。ならば、その事実を知った自分が、黙って見過ごすわけにはいかない。
二人は暗い路地へ走り出した。
背後で倉庫の扉が開く音がした。追手の怒鳴り声が夜気を裂く。
けれどリセの胸には、恐怖だけではないものがあった。
水利権は、商会のものではない。
町の暮らしから切り離して売れるものではない。
その証明を、これから人々の前へ突きつけるのだ。




