↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
契約の余白を読む娘は、港町で水路監督官と明日を結ぶ  作者: 銀細工ナギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/20

小さな工房の新仕事

 翌朝、港町の朝はいつもより早く始まった。


 夜のうちに持ち帰った契約書を、リセは宿の小さな机の上に広げていた。油紙に包まれていた証書は、濡れた跡もなく無事だった。だが、隠し条項の頁を何度読み返しても、胸の奥の冷たさは消えない。


 商会は、あの一文だけを根拠に水利権を譲渡したのだろう。けれど、誰に、どの範囲を、どんな対価で譲ったのかは、どこにも書かれていない。


「読めば読むほど、足りないものが増えます」


 向かいの椅子に座るノアが言った。


「足りないものが増えるのではなく、最初から抜かれていたものが見えているだけです」


「同じことだ」


「違います。最初からないのなら、誰かが説明しなければなりません」


 ノアは返事をせず、窓の外を見た。港へ向かう荷車が、石畳の上で大きく揺れている。


「町へ知らせるには、証書だけでは弱い」


「分かっています」


「商会は、譲渡条項がある以上、手続きは正当だと言う」


「だから、ほかの契約も調べます」


 リセは証書を丁寧に閉じた。


 昨夜、ノアは追手の前に立ち、彼女を先に逃がそうとした。けれど、二人で走ると決めたとき、彼はそれ以上止めなかった。そのことが、妙に心に残っている。


 助けられたのではない。


 自分の判断を、ノアが認めたのだ。


 宿を出ると、ノアは町の西側へ歩き出した。水路役所へ戻るのだと思っていたリセは、古い染物屋の前で足を止めた彼を見て、首を傾げた。


「ここですか?」


「工房だ」


 染物屋の隣に、間口の狭い木造の建物があった。看板には、〈ホルン契約整理工房〉と書かれている。工房という名前のわりに、壁には紙束が積まれ、窓際には羽根ペンや定規が並べられていた。


 扉を開けると、白髪の女が顔を上げた。


「ノアが人を連れてくるなんて、珍しいね」


「仕事を頼みたい」


「水路の話なら、うちは水を売ってないよ」


「この人は契約を読める」


 ノアがリセを示した。


 女はしばらく彼女を見つめ、それから机の上の箱を引き寄せた。


「読めるっていうのは、字が読めるって意味かい。それとも、商会の連中が嫌がるほうかい」


「後者です」


 リセが答えると、女は片方の眉を上げた。


「名前は?」


「リセ」


「私はマーヤ。ここでは船主や職人の契約を整理している。大きな商会のように立派な書庫はないけれど、暮らしの約束を紙にして、あとで揉めないようにするのが仕事さ」


 マーヤは箱から数枚の紙を取り出した。


「この荷運び契約、今朝持ち込まれた。運賃の計算が合わないんだ。見てもらえるかい」


 リセは紙を受け取った。


 内容は、干し魚を倉庫から市場まで運ぶ契約だった。荷の重さと距離に応じて運賃を決める、と書かれている。しかし、別の欄には「雨天時は荷の保護料を加算する」とだけあり、加算額がない。


 指先に、冷たい痛みが走った。


「保護料の金額が書かれていません。運ぶ側が自由に決められる形です」


「やっぱりかい」


「それから、荷が濡れた場合の責任も曖昧です。荷主が保護料を払わなければ運ぶ側の責任、払えば荷主の責任、と読めるように両方の言い方があります」


 マーヤは紙をひったくるように受け取り、目を細めた。


「この契約、書いたのは誰だい」


「運送組合の代書人です」


「組合に文句を言ってくる」


「その前に、訂正文を作ったほうがいいです。争いになったとき、どちらの意味で合意したか分からなくなります」


 リセは空いた紙を引き寄せ、条件を書き直した。保護料の額、雨天の判断時刻、荷が濡れた場合の責任範囲。ひとつずつ、曖昧な言葉を具体的な約束へ変えていく。


 マーヤは黙って見ていたが、やがて小さな革袋を机に置いた。


「今日の分だ」


 中には銀貨が二枚入っていた。


 リセは手を伸ばしかけて、止めた。


「これは、私が受け取っていいのですか」


「仕事をした人間が受け取るものだよ」


「でも、ノアが紹介しただけで……」


「紹介料なら、あいつに別で払う。あんたはあんたの仕事をした」


 リセは銀貨を一枚ずつ確かめた。商会で働いていたころ、彼女が契約の不備を指摘しても、それは当然の仕事として扱われた。失敗が起きれば責任だけが渡され、報酬の話をすることさえ許されなかった。


 今、彼女は自分で読んで、自分で直し、自分の名前で対価を受け取った。


 銀貨は軽いのに、手の中で不思議な重みがあった。


「明日も来るかい」


「来ても、いいのですか」


「仕事があるならね」


「仕事を作ります」


 思わずそう答えてから、リセは自分の声に驚いた。


 マーヤが笑い、ノアは窓の外へ顔を向けた。耳が少し赤くなっているように見える。


 工房を出たあと、二人は運河沿いを歩いた。水面は浅く、泥の底に細い流れが光っている。


「工房を借りるつもりだったのですか」


「借りるのは、お前だ」


「私が?」


「町の契約を整理できる場所が必要だ。水路の調査だけでは、記録を守れない」


 ノアは歩みを緩めた。


「俺は現場しか知らない。紙の中で何が抜かれているかは、お前のほうが分かる」


「あなたは、私の力を信用しているのですね」


「力だけではない」


 短い言葉だった。


 リセは聞き返さなかった。ノアが話すのを苦手としていることは、もう知っている。言葉が少ないぶん、彼の決めたことは簡単には揺らがない。


「では、条件を決めましょう」


 リセは足を止めた。


「私は工房で契約を整理します。水路の証拠を調べるときは、私が必要だと思った資料を自分で選びます。あなたは、危険だからという理由だけで止めないでください」


「危険があるときは止める」


「相談してからにしてください」


 ノアは少し考えた。


「分かった」


「それから、工房の報酬は私が受け取ります」


「当然だ」


「あなたが払うのではなく、依頼した人から」


「それも当然だ」


 リセは小さく笑った。


「意外と話が早いのですね」


「契約条件が明確だからだ」


「では、あなたも署名しますか」


 リセが冗談めかして言うと、ノアは真剣な顔で頷いた。


「必要なら」


 その返事に、今度は笑いをこらえられなかった。


 運河の先では、乾いた水門が朝の光を浴びている。町の水を取り戻すには、まだ多くの記録と証言が必要だった。追われる危険も、商会の反撃も消えてはいない。


 それでも、リセの懐には、自分で得た銀貨がある。


 そして隣には、命令するのではなく、条件を聞いてくれる男がいる。


 小さな工房の机を借りることから、彼女の新しい仕事は始まった。判定:R1.0

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
最後の『判定:R1.0』の意味が不明です
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。