小さな工房の新仕事
翌朝、港町の朝はいつもより早く始まった。
夜のうちに持ち帰った契約書を、リセは宿の小さな机の上に広げていた。油紙に包まれていた証書は、濡れた跡もなく無事だった。だが、隠し条項の頁を何度読み返しても、胸の奥の冷たさは消えない。
商会は、あの一文だけを根拠に水利権を譲渡したのだろう。けれど、誰に、どの範囲を、どんな対価で譲ったのかは、どこにも書かれていない。
「読めば読むほど、足りないものが増えます」
向かいの椅子に座るノアが言った。
「足りないものが増えるのではなく、最初から抜かれていたものが見えているだけです」
「同じことだ」
「違います。最初からないのなら、誰かが説明しなければなりません」
ノアは返事をせず、窓の外を見た。港へ向かう荷車が、石畳の上で大きく揺れている。
「町へ知らせるには、証書だけでは弱い」
「分かっています」
「商会は、譲渡条項がある以上、手続きは正当だと言う」
「だから、ほかの契約も調べます」
リセは証書を丁寧に閉じた。
昨夜、ノアは追手の前に立ち、彼女を先に逃がそうとした。けれど、二人で走ると決めたとき、彼はそれ以上止めなかった。そのことが、妙に心に残っている。
助けられたのではない。
自分の判断を、ノアが認めたのだ。
宿を出ると、ノアは町の西側へ歩き出した。水路役所へ戻るのだと思っていたリセは、古い染物屋の前で足を止めた彼を見て、首を傾げた。
「ここですか?」
「工房だ」
染物屋の隣に、間口の狭い木造の建物があった。看板には、〈ホルン契約整理工房〉と書かれている。工房という名前のわりに、壁には紙束が積まれ、窓際には羽根ペンや定規が並べられていた。
扉を開けると、白髪の女が顔を上げた。
「ノアが人を連れてくるなんて、珍しいね」
「仕事を頼みたい」
「水路の話なら、うちは水を売ってないよ」
「この人は契約を読める」
ノアがリセを示した。
女はしばらく彼女を見つめ、それから机の上の箱を引き寄せた。
「読めるっていうのは、字が読めるって意味かい。それとも、商会の連中が嫌がるほうかい」
「後者です」
リセが答えると、女は片方の眉を上げた。
「名前は?」
「リセ」
「私はマーヤ。ここでは船主や職人の契約を整理している。大きな商会のように立派な書庫はないけれど、暮らしの約束を紙にして、あとで揉めないようにするのが仕事さ」
マーヤは箱から数枚の紙を取り出した。
「この荷運び契約、今朝持ち込まれた。運賃の計算が合わないんだ。見てもらえるかい」
リセは紙を受け取った。
内容は、干し魚を倉庫から市場まで運ぶ契約だった。荷の重さと距離に応じて運賃を決める、と書かれている。しかし、別の欄には「雨天時は荷の保護料を加算する」とだけあり、加算額がない。
指先に、冷たい痛みが走った。
「保護料の金額が書かれていません。運ぶ側が自由に決められる形です」
「やっぱりかい」
「それから、荷が濡れた場合の責任も曖昧です。荷主が保護料を払わなければ運ぶ側の責任、払えば荷主の責任、と読めるように両方の言い方があります」
マーヤは紙をひったくるように受け取り、目を細めた。
「この契約、書いたのは誰だい」
「運送組合の代書人です」
「組合に文句を言ってくる」
「その前に、訂正文を作ったほうがいいです。争いになったとき、どちらの意味で合意したか分からなくなります」
リセは空いた紙を引き寄せ、条件を書き直した。保護料の額、雨天の判断時刻、荷が濡れた場合の責任範囲。ひとつずつ、曖昧な言葉を具体的な約束へ変えていく。
マーヤは黙って見ていたが、やがて小さな革袋を机に置いた。
「今日の分だ」
中には銀貨が二枚入っていた。
リセは手を伸ばしかけて、止めた。
「これは、私が受け取っていいのですか」
「仕事をした人間が受け取るものだよ」
「でも、ノアが紹介しただけで……」
「紹介料なら、あいつに別で払う。あんたはあんたの仕事をした」
リセは銀貨を一枚ずつ確かめた。商会で働いていたころ、彼女が契約の不備を指摘しても、それは当然の仕事として扱われた。失敗が起きれば責任だけが渡され、報酬の話をすることさえ許されなかった。
今、彼女は自分で読んで、自分で直し、自分の名前で対価を受け取った。
銀貨は軽いのに、手の中で不思議な重みがあった。
「明日も来るかい」
「来ても、いいのですか」
「仕事があるならね」
「仕事を作ります」
思わずそう答えてから、リセは自分の声に驚いた。
マーヤが笑い、ノアは窓の外へ顔を向けた。耳が少し赤くなっているように見える。
工房を出たあと、二人は運河沿いを歩いた。水面は浅く、泥の底に細い流れが光っている。
「工房を借りるつもりだったのですか」
「借りるのは、お前だ」
「私が?」
「町の契約を整理できる場所が必要だ。水路の調査だけでは、記録を守れない」
ノアは歩みを緩めた。
「俺は現場しか知らない。紙の中で何が抜かれているかは、お前のほうが分かる」
「あなたは、私の力を信用しているのですね」
「力だけではない」
短い言葉だった。
リセは聞き返さなかった。ノアが話すのを苦手としていることは、もう知っている。言葉が少ないぶん、彼の決めたことは簡単には揺らがない。
「では、条件を決めましょう」
リセは足を止めた。
「私は工房で契約を整理します。水路の証拠を調べるときは、私が必要だと思った資料を自分で選びます。あなたは、危険だからという理由だけで止めないでください」
「危険があるときは止める」
「相談してからにしてください」
ノアは少し考えた。
「分かった」
「それから、工房の報酬は私が受け取ります」
「当然だ」
「あなたが払うのではなく、依頼した人から」
「それも当然だ」
リセは小さく笑った。
「意外と話が早いのですね」
「契約条件が明確だからだ」
「では、あなたも署名しますか」
リセが冗談めかして言うと、ノアは真剣な顔で頷いた。
「必要なら」
その返事に、今度は笑いをこらえられなかった。
運河の先では、乾いた水門が朝の光を浴びている。町の水を取り戻すには、まだ多くの記録と証言が必要だった。追われる危険も、商会の反撃も消えてはいない。
それでも、リセの懐には、自分で得た銀貨がある。
そして隣には、命令するのではなく、条件を聞いてくれる男がいる。
小さな工房の机を借りることから、彼女の新しい仕事は始まった。判定:R1.0




