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契約の余白を読む娘は、港町で水路監督官と明日を結ぶ  作者: 銀細工ナギ


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4/20

分水門の鍵

 夜明け前の港町は、まだ眠っていた。


 海から吹く風が倉庫の隙間を抜け、干上がった運河の底に薄い砂の筋を描いている。リセは外套の襟を押さえながら、詰所の前でノアを待っていた。


「早いな」


 背後から声がした。


 振り返ると、ノアがランタンと長い縄を肩に掛けて立っていた。腰には見慣れない鉄の道具が下がっている。


「あなたもです」


「俺は約束の時間より早く来ただけだ」


「私も同じです」


 ノアは返事をせず、南の水路へ歩き出した。


 町の外れを抜けると、道は次第に細くなった。両側には枯れた葦が広がり、遠くに低い石造りの建物が見える。あれが分水門だと、昨日、水番の老人から聞いていた。


「商会の現場責任者は、ここで何をしているのでしょう」


「記録には保全作業とある」


「実際には?」


「見ていない。だから見る」


 分水門の前には、錆びた鉄格子が立っていた。門扉の中央には大きな錠が掛かっている。ノアはしゃがみ込み、錠を調べた。


「新しい」


 表面の黒い油が、朝露を弾いていた。


「門の方は古いのに、錠だけ交換されています」


 リセも膝をついた。錠の脇に、小さな金属板が打ちつけられている。そこには商会の紋章と、番号が刻まれていた。


「鍵の管理番号でしょうか」


「たぶん違う」


 ノアは金属板を指でなぞった。


「水路台帳にある番号と一致しない。これは商会の倉庫鍵に使う形式だ」


「分水門の鍵を、倉庫と同じ扱いにしている?」


「門そのものを、町の設備ではなく商会の設備として管理しているのかもしれない」


 ノアは錠を開けようとしたが、鍵を持っていなかった。鉄格子の内側には、幅の狭い通路が続いている。その先に、石造りの操作室があった。


「中へ入れませんね」


「正面からは」


 ノアは壁際へ回り、雑草をかき分けた。古い排水溝の蓋が半分崩れている。蓋を外すと、人ひとりが這って通れるほどの穴が現れた。


「ここを?」


「保守用の通路だ。昔の図面に載っている」


「昔の図面まで持っているのですか」


「監督官だからな」


「昨日は、記録を一人で判断しないと言いました」


「持っていることと、隠すことは違う」


 リセは少しだけ笑った。


 二人は排水溝を抜け、分水門の内側へ入った。操作室の扉は開いていたが、床には新しい泥の跡が残っていた。壁に並ぶ歯車の一つだけが、他のものより磨かれている。


 ノアが歯車に触れた。


「この門は、最近何度も動かされている」


「水番の木札にあった開閉時刻と合います」


 リセはランタンを掲げ、壁の棚を照らした。そこには古い帳面が積まれていた。表紙には、かすれた文字で「南分水門・維持記録」とある。


 彼女は一冊を開いた。


 最初の数ページには、十年前の日付とともに、開門時刻、放水量、担当者の署名が丁寧に記されていた。だが、ある年を境に記録の形式が変わっている。開門時刻は「必要に応じて」、放水量は「規定量」とだけ書かれていた。


「この記録は、誰が作ったのですか」


「町の水路役所だ。商会が管理を請け負う前のものだろう」


 リセはページをめくった。最後の方に、別紙を綴じた跡がある。紙は抜き取られていたが、糸の間に小さな紙片が挟まっていた。


 そこには、かろうじて読める文字が残っている。


 ――分水門の操作権限を、契約更新後も旧規定に従い保持する。


「操作権限を保持する?」


 ノアが覗き込んだ。


「誰が?」


「主語がありません。ただ、前後の文が抜かれています」


 リセは紙片を指で押さえた。冷たい痛みが指先から腕へ走る。書かれなかった部分の矛盾を、彼女の力は教えてくれない。けれど、残った言葉だけでも、何かが引っかかった。


「この文の前に、別の条件があったはずです」


「なぜ分かる」


「『保持する』という言葉は、もともと権限を持っていた者が使う表現です。新しく与えるなら、『付与する』や『移管する』になる。それに、旧規定に従うなら、旧規定の内容が添えられているはずです」


 ノアは黙って帳面をめくった。


 最初の記録には、水門の鍵を水番が保管し、開閉には二人の立ち会いが必要だと書かれている。ところが現在、鍵は商会が持ち、水番には立ち会いの権限すらない。


「誰かが、規定を途中で切り取った」


「記録を破ったのは商会でしょうか」


「まだ断定できない」


 ノアは壁の向こうを見た。


 そのとき、外で石を踏む音がした。


 二人は灯りを消し、操作室の奥へ身を隠した。やがて鉄格子の向こうに、二つの人影が現れる。商会の作業員らしい男たちが、低い声で話していた。


「今朝も開けるのか」


「倉庫の船が入る。町側は後回しだ」


「監督官が嗅ぎ回っている」


「鍵がある限り、門は開かない。余計なことをするな」


 男たちは錠を確かめ、立ち去った。


 足音が遠ざかると、ノアは息を吐いた。


「聞いたな」


「ええ。町への放水より、倉庫の船を優先している」


 リセは帳面を閉じた。


「鍵がある限り、門は開かないと言っていました」


「つまり、鍵を持つ者が、水の流れを決めている」


「鍵を探しましょう」


「商会の鍵を奪うつもりか」


「違います。誰が、いつ、どの契約に基づいて持つことになったのかを探すんです」


 ノアは彼女を見た。ランタンの消えた暗闇の中でも、その視線だけは分かった。


「夜明け前に、もう一度来る」


「今日の夜ですか」


「鍵の記録を調べる。必要なら、商会の倉庫も見る」


「危険では?」


「だから一人では行かない」


 彼は腰の鉄具を外し、リセに渡した。


「これは?」


「古い水門用の鍵具だ。開錠には使えないが、錠の型を調べられる」


 リセはそれを受け取った。冷たい金属の重みが、手のひらに残った。


 外へ出ると、東の空がわずかに白み始めていた。運河の底にはまだ水がない。けれど、分水門の向こうから、かすかな滴る音が聞こえた。


 止められた水は、完全に消えたわけではない。


 二人は町へ戻る道を歩きながら、夜の調査を決めた。鍵が隠すものを確かめるために。

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