町の水番を訪ねて
扉を叩く音が、狭い詰所の中に重く響いた。
「確認したいことがあるなら、早く済ませろ」
ノアは低く言い、帳面を水番の老人へ返した。老人は戸棚の奥へそれを押し込み、何食わぬ顔で椅子に腰を下ろす。
扉が開いた。
入ってきたのは、濃紺の上着を着た男だった。胸元にグランデル商会の銀糸の紋章がある。年齢はノアと同じくらいだが、頬に浮かぶ笑みは人の顔を見るためではなく、値段を測るためのものに見えた。
「監督官殿、こちらで何を?」
「水番への聞き取りだ」
「聞き取りですか。町の水不足は、すでに原因が判明しております。住民が規定以上に水を汲み上げたためです」
男はリセを見た。
「それとも、王都から来た契約係の方が、新しい結論をお持ちで?」
「私は結論を持っていません」
リセは答えた。
「記録と証言を集めています」
「結論のない調査に、意味があるのでしょうか」
「結論を先に決めるよりは、あると思います」
男の笑みが薄くなった。
ノアは彼の名を尋ねた。
「グランデル商会の水利担当、セドリックです。契約については私が責任をもって説明できます」
「なら、三日前の点検記録を見せろ」
「それは商会の内部資料です」
「町の水路に関する記録だ」
「契約には、すべての記録を町へ提出する義務はありません」
セドリックは穏やかに言った。
リセの指先に、あの冷たい痛みが走った。
契約書には、商会が点検結果を毎月報告する、と記されていた。確かに点検記録そのものを渡すとは書いていない。けれど、報告に必要な内容を隠してよいとも書かれていない。
「毎月の報告には、水位の変化と点検日を記載するとあります」
「ええ」
「では、水位が急に下がった三日間について、報告書には何と?」
セドリックは一瞬だけ黙った。
「異常はなかった、と」
「水番の帳面では、三日間だけ記録がありません」
「水番の記録は非公式です」
「では、公式の報告書に、その三日間の水位は書かれていますか」
セドリックは答えなかった。
ノアが扉を開ける。
「帰れ。必要なら正式に照会する」
「監督官殿、あなたは町のために働いているつもりでしょう。しかし、水路の管理責任が誰にあるか、忘れないことです」
セドリックはリセを見た。
「余計な疑いを広げれば、あなた自身が責任を負うことになりますよ」
「責任を負うべきことが何か、記録を見てから決めます」
リセが言うと、セドリックは鼻で笑い、詰所を出ていった。
外の足音が遠ざかるまで、誰も口を開かなかった。
「今の男は、いつもああなのか」
リセが尋ねると、水番は渋い顔をした。
「昔は、もっと露骨だった。最近は言葉だけ丁寧になった」
「水門を実際に動かしているのは、商会の人間ですか」
「ああ。町の水番は水量を読むだけだ。鍵を持っているのは商会だ」
「町の申請どおりに水は流れていますか」
老人は首を振った。
「申請書には、畑へ流す分も含まれている。だが、実際に届くのは運河と倉庫の辺りだけだ」
「倉庫?」
「商会の倉庫だ。荷を洗う水や、船底を清める水が優先される」
ノアの顔が硬くなった。
「商会は、町全体へ必要量を供給していると言っている」
「紙の上ではな」
水番は棚から別の木札を取り出した。そこには日付と水門の開閉時刻が刻まれている。
「これは俺が毎朝、見回りのあとでつけたものだ。商会の報告書とは違う日が何度もある」
リセは木札を一枚ずつ並べた。
契約書には、日の出から正午までを町への供給時間と定めている。だが木札には、日の出から一時間だけ開門し、その後は閉じられた日が続いていた。
「この運用は、誰の指示ですか」
「商会の現場責任者だ。理由はいつも、貯水池の保全だと言う」
「保全作業は、どこで?」
「南の分水門だ。だが、俺は中へ入れてもらえない」
詰所を出たあと、ノアとリセは市場の外れにある農家を訪ねた。
最初に話を聞いたのは、干し豆を売る女だった。彼女は畑の場所と水路の順番を説明し、今年は二度しか水が来なかったと言った。次に会った老夫婦は、夜中に商会の荷車が分水門へ向かうのを何度も見たと証言した。
「水を運ぶ荷車ですか」
「違う。空の樽を積んでいた。帰りには重そうに沈んでいたよ」
別の農家は、申請書を出したのに「町内各所」の定義に畑は含まれないと言われたという。
リセは聞き取った内容を紙に書き留めた。証言はそれぞれ違っていたが、重なる部分がある。水は運河へ届かない。商会の倉庫だけは乾いていない。夜間に分水門へ荷車が出入りする。そして、申請に対する返答は担当者ごとに変わる。
帰り道、ノアは黙って彼女の紙束を見た。
「証言だけでは、商会の不正を証明できない」
「分かっています」
「契約の矛盾も、誰かが故意に水を止めた証拠にはならない」
「それも分かっています」
「なら、なぜ続ける」
リセは足を止め、干上がった運河を見た。
「私の力は、書かれた言葉の食い違いしか読めません。だから、言葉以外のことは、見た人に聞くしかないんです」
ノアは返事をしなかった。
しばらくして、彼は革袋から契約書を取り出した。
「明日から、水路の調査に同行しろ」
「商会への報告は?」
「契約書の整理と、町側の記録確認を手伝わせると書く」
「本当の理由は?」
「君が勝手に動くと、もっと危険だからだ」
リセは彼を見上げた。
「同行を認める、ということですね」
「そう言った」
「では、私からも条件があります」
ノアの眉がわずかに上がる。
「調査で見つけた記録は、私にも見せてください。監督官だからといって、一人で判断しないこと」
風が運河の底の砂をさらった。
ノアはしばらく考えたあと、手を差し出した。
「分かった。互いに記録を隠さない」
それは契約書にはない、短い約束だった。
リセはその手を握った。ノアの手は冷たく、節が硬かった。けれど、逃げるためではなく、確かめるために差し出された手だと分かった。
遠くで、乾いた水門が軋んだ。
町の水はまだ戻らない。だが、止められた流れを追うための道筋は、少しずつ見え始めていた。




