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契約の余白を読む娘は、港町で水路監督官と明日を結ぶ  作者: 銀細工ナギ


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3/20

町の水番を訪ねて

 扉を叩く音が、狭い詰所の中に重く響いた。


「確認したいことがあるなら、早く済ませろ」


 ノアは低く言い、帳面を水番の老人へ返した。老人は戸棚の奥へそれを押し込み、何食わぬ顔で椅子に腰を下ろす。


 扉が開いた。


 入ってきたのは、濃紺の上着を着た男だった。胸元にグランデル商会の銀糸の紋章がある。年齢はノアと同じくらいだが、頬に浮かぶ笑みは人の顔を見るためではなく、値段を測るためのものに見えた。


「監督官殿、こちらで何を?」


「水番への聞き取りだ」


「聞き取りですか。町の水不足は、すでに原因が判明しております。住民が規定以上に水を汲み上げたためです」


 男はリセを見た。


「それとも、王都から来た契約係の方が、新しい結論をお持ちで?」


「私は結論を持っていません」


 リセは答えた。


「記録と証言を集めています」


「結論のない調査に、意味があるのでしょうか」


「結論を先に決めるよりは、あると思います」


 男の笑みが薄くなった。


 ノアは彼の名を尋ねた。


「グランデル商会の水利担当、セドリックです。契約については私が責任をもって説明できます」


「なら、三日前の点検記録を見せろ」


「それは商会の内部資料です」


「町の水路に関する記録だ」


「契約には、すべての記録を町へ提出する義務はありません」


 セドリックは穏やかに言った。


 リセの指先に、あの冷たい痛みが走った。


 契約書には、商会が点検結果を毎月報告する、と記されていた。確かに点検記録そのものを渡すとは書いていない。けれど、報告に必要な内容を隠してよいとも書かれていない。


「毎月の報告には、水位の変化と点検日を記載するとあります」


「ええ」


「では、水位が急に下がった三日間について、報告書には何と?」


 セドリックは一瞬だけ黙った。


「異常はなかった、と」


「水番の帳面では、三日間だけ記録がありません」


「水番の記録は非公式です」


「では、公式の報告書に、その三日間の水位は書かれていますか」


 セドリックは答えなかった。


 ノアが扉を開ける。


「帰れ。必要なら正式に照会する」


「監督官殿、あなたは町のために働いているつもりでしょう。しかし、水路の管理責任が誰にあるか、忘れないことです」


 セドリックはリセを見た。


「余計な疑いを広げれば、あなた自身が責任を負うことになりますよ」


「責任を負うべきことが何か、記録を見てから決めます」


 リセが言うと、セドリックは鼻で笑い、詰所を出ていった。


 外の足音が遠ざかるまで、誰も口を開かなかった。


「今の男は、いつもああなのか」


 リセが尋ねると、水番は渋い顔をした。


「昔は、もっと露骨だった。最近は言葉だけ丁寧になった」


「水門を実際に動かしているのは、商会の人間ですか」


「ああ。町の水番は水量を読むだけだ。鍵を持っているのは商会だ」


「町の申請どおりに水は流れていますか」


 老人は首を振った。


「申請書には、畑へ流す分も含まれている。だが、実際に届くのは運河と倉庫の辺りだけだ」


「倉庫?」


「商会の倉庫だ。荷を洗う水や、船底を清める水が優先される」


 ノアの顔が硬くなった。


「商会は、町全体へ必要量を供給していると言っている」


「紙の上ではな」


 水番は棚から別の木札を取り出した。そこには日付と水門の開閉時刻が刻まれている。


「これは俺が毎朝、見回りのあとでつけたものだ。商会の報告書とは違う日が何度もある」


 リセは木札を一枚ずつ並べた。


 契約書には、日の出から正午までを町への供給時間と定めている。だが木札には、日の出から一時間だけ開門し、その後は閉じられた日が続いていた。


「この運用は、誰の指示ですか」


「商会の現場責任者だ。理由はいつも、貯水池の保全だと言う」


「保全作業は、どこで?」


「南の分水門だ。だが、俺は中へ入れてもらえない」


 詰所を出たあと、ノアとリセは市場の外れにある農家を訪ねた。


 最初に話を聞いたのは、干し豆を売る女だった。彼女は畑の場所と水路の順番を説明し、今年は二度しか水が来なかったと言った。次に会った老夫婦は、夜中に商会の荷車が分水門へ向かうのを何度も見たと証言した。


「水を運ぶ荷車ですか」


「違う。空の樽を積んでいた。帰りには重そうに沈んでいたよ」


 別の農家は、申請書を出したのに「町内各所」の定義に畑は含まれないと言われたという。


 リセは聞き取った内容を紙に書き留めた。証言はそれぞれ違っていたが、重なる部分がある。水は運河へ届かない。商会の倉庫だけは乾いていない。夜間に分水門へ荷車が出入りする。そして、申請に対する返答は担当者ごとに変わる。


 帰り道、ノアは黙って彼女の紙束を見た。


「証言だけでは、商会の不正を証明できない」


「分かっています」


「契約の矛盾も、誰かが故意に水を止めた証拠にはならない」


「それも分かっています」


「なら、なぜ続ける」


 リセは足を止め、干上がった運河を見た。


「私の力は、書かれた言葉の食い違いしか読めません。だから、言葉以外のことは、見た人に聞くしかないんです」


 ノアは返事をしなかった。


 しばらくして、彼は革袋から契約書を取り出した。


「明日から、水路の調査に同行しろ」


「商会への報告は?」


「契約書の整理と、町側の記録確認を手伝わせると書く」


「本当の理由は?」


「君が勝手に動くと、もっと危険だからだ」


 リセは彼を見上げた。


「同行を認める、ということですね」


「そう言った」


「では、私からも条件があります」


 ノアの眉がわずかに上がる。


「調査で見つけた記録は、私にも見せてください。監督官だからといって、一人で判断しないこと」


 風が運河の底の砂をさらった。


 ノアはしばらく考えたあと、手を差し出した。


「分かった。互いに記録を隠さない」


 それは契約書にはない、短い約束だった。


 リセはその手を握った。ノアの手は冷たく、節が硬かった。けれど、逃げるためではなく、確かめるために差し出された手だと分かった。


 遠くで、乾いた水門が軋んだ。


 町の水はまだ戻らない。だが、止められた流れを追うための道筋は、少しずつ見え始めていた。

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