水路監督官の依頼
翌朝、リセは海鳴りで目を覚ました。
ネレイアの宿舎は、商会の出張所に隣接した古い石造りの建物だった。窓枠には塩が白くこびりつき、壁の向こうからは荷車の軋む音が聞こえる。王都の朝とは違い、町全体が水と船の気配をまとっていた。
支度を終えて外へ出ると、ノアはすでに運河沿いに立っていた。灰色の外套の裾が風に揺れている。彼の足元には、昨夜見せられた契約書を収めた革袋が置かれていた。
「早いですね」
「水路は待たない」
「水は、待つこともあります。せき止められていれば」
ノアは答えず、革袋から書類を取り出した。
「管理契約は三年前に更新された。相手はグランデル商会。町の南にある貯水池と、運河へ水を流す分水門を管理している」
彼は契約書を石積みの上に広げた。
紙は黄ばんでいたが、文字は濡れないインクで書かれていた。商会が誇る特殊なインクだ。王都で見たものと同じ黒さに、リセの胸がざわついた。
「町が水路を使う代わりに、毎年一定量の水を供給する。商会が管理を怠った場合は、町が契約を解除できる」
「ずいぶん町に有利な契約ですね」
「そう見える」
ノアの声は低かった。
リセは最初の頁から指で追った。第一条、貯水池の管理。第二条、分水門の点検。第三条、各季節に定められた供給量。言葉は整然としている。だが、指先に冷たい痛みが走った。
「第三条の供給量は、どこへ届けることになっていますか」
「町の運河だ」
「契約書には、そう書かれていません」
ノアが眉を動かした。
リセは条文を指で示した。
「ここには、『南貯水池より町内各所へ必要量を供給する』とあります。でも、町内各所の定義がない。運河、船渠、商会の倉庫、どれを含むのか決められていません」
「それだけなら、表現の曖昧さだろう」
「はい。ですが、第四条には『供給量は、受領側の申請に基づき調整できる』とあります」
「町は申請を出している」
「誰が、どの範囲の水を申請するのですか」
ノアは黙った。
リセは頁をめくった。第四条の末尾には、細い文字で但し書きが付いている。
「『ただし、貯水池の保全に必要な水量を除く』。保全に必要な水量の計算方法がありません。商会が保全を理由に水を止めても、契約違反かどうか判定できない」
「実際、商会は保全作業中だと言っている」
「いつからですか」
「二か月前からだ」
「二か月も続く保全作業なら、作業計画か完了予定日の記録があるはずです」
「提出を求めた。返事は、契約上その義務はない、だった」
ノアは書類を畳みかけた。
「だから、町は水を失い続けている」
運河の底には、乾いた泥がひび割れていた。細い水がその溝を縫うように流れている。岸辺の木桶には、昨夜汲まれた水がわずかに残っていた。近くの家から女が出てきて、桶を覗き込み、ため息をついた。
リセは契約書へ視線を戻した。
「もう一つあります」
「何だ」
「第七条です。『管理上の判断について、商会は水路監督官の指示に従う』とあります」
「それがどうした」
「第八条には、『監督官の指示によって生じた損害について、商会は責任を負わない』とある」
ノアの目が契約書に落ちた。
「私が水を流せと命じたあと、貯水池が空になれば、損害は私の責任になる」
「そう読めます。けれど、第七条に従う義務があるなら、商会は指示を拒めない。拒めないのに、結果だけを監督官の責任にする。条文同士が食い違っています」
「君の力で分かるのか」
初めて、ノアが正面から尋ねた。
リセは少し迷った。王都では、その力を知られたことで便利な道具として扱われた。契約の矛盾を見抜くたび、相手は彼女に全てを判断させようとした。だが、彼女の力が読めるのは、書かれた言葉の間だけだ。誰が水を止めたのか、何を隠しているのかまでは分からない。
「矛盾のある場所は分かります。でも、偽りかどうかを決める力ではありません」
「なら、昨夜の言葉は?」
「偽りの可能性がある、と言いました。契約書に嘘があると断定したわけではありません」
ノアはしばらく黙っていた。
風が吹き、書類の端がめくれた。彼は片手で押さえながら、淡々と言った。
「商会は、町が水を使いすぎたせいで供給を減らしたと言っている」
「町の申請書を見せてください」
「商会の保管だ」
「水門の点検記録は?」
「それも商会だ」
「では、町側に残っている記録を探しましょう」
ノアはわずかに首を傾けた。
「君は商会から雑用係として送られたのではないのか」
「そう聞いています。でも、雑用の内容に契約書を読むなとは書かれていません」
「口が減らないな」
「王都でも、よく言われました」
ノアは笑わなかった。ただ、書類を革袋へ戻す手を止めた。
「今日、町の水番に会う。古い記録を持っている者がいるかもしれない」
「私も行きます」
「商会の出張所へ報告する必要がある」
「報告には、同行したと書けばいいでしょう」
「危険かもしれない」
「契約書に危険の所在は書かれていません」
ノアは初めて、ほんのわずかに口元を緩めた。
「契約書に書かれていないことまで、気にするのか」
「書かれていないからこそ、気にします」
二人は運河沿いの道を歩き始めた。
町の中心には、干上がった水路を挟んで市場が広がっていた。魚を売る店には氷がなく、野菜を並べる農家は泥の付いた根を数えるように扱っている。人々の視線は、灰色の外套を着たノアと、見慣れない女であるリセへ何度も向けられた。
水番の詰所は、古い水車小屋の脇にあった。扉を叩くと、白髪の男が顔を出した。
「監督官か。今日は何だ」
「三年前の管理契約について聞きたい」
ノアが言うと、男の目がリセへ移った。
「商会の人間か」
「元はそうです」
「元?」
「今は、契約を読む仕事を探しています」
男は警戒を解かなかったが、やがて二人を中へ通した。棚には水位を記した木札と、煤けた帳面が積み上げられている。
「商会は、町が必要以上に水を取ったと言っている。しかし、水番の記録では逆だ。二年前の夏から、流れは少しずつ減っている」
男が古い帳面を開く。
リセはその頁に触れた。
冷たい痛みはなかった。帳面の数字は一見正しく並んでいる。だが、日付の間に不自然な空白があった。水位が急に下がった三日間だけ、記録が抜け落ちている。
「この三日間の記録は?」
「商会の検査員が持っていった。返ってきていない」
「検査員の名前は」
男は答えようとして、口を閉じた。
そのとき、詰所の外で足音が止まった。
窓の隙間から、黒い袖が見える。グランデル商会の紋章が刺繍されていた。
ノアが静かに立ち上がる。
「記録を閉じろ」
「なぜですか」
「見張られている」
リセは帳面の空白を見つめた。契約書の矛盾と、消えた三日間の記録。その二つはまだ一本の線にはならない。
けれど、誰かが水の流れだけでなく、記録の流れまで止めている。
外から、扉を叩く音がした。
「水路監督官ノア。グランデル商会の者だ。契約確認のため、入るぞ」
ノアはリセを見た。
「ここから先は、君が選べ」
リセは帳面を閉じ、立ち上がった。
「確認したいことが、まだ残っています」
扉の向こうで、再び拳が鳴った。 天天中彩票有




