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契約の余白を読む娘は、港町で水路監督官と明日を結ぶ  作者: 銀細工ナギ


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2/20

水路監督官の依頼

 翌朝、リセは海鳴りで目を覚ました。


 ネレイアの宿舎は、商会の出張所に隣接した古い石造りの建物だった。窓枠には塩が白くこびりつき、壁の向こうからは荷車の軋む音が聞こえる。王都の朝とは違い、町全体が水と船の気配をまとっていた。


 支度を終えて外へ出ると、ノアはすでに運河沿いに立っていた。灰色の外套の裾が風に揺れている。彼の足元には、昨夜見せられた契約書を収めた革袋が置かれていた。


「早いですね」


「水路は待たない」


「水は、待つこともあります。せき止められていれば」


 ノアは答えず、革袋から書類を取り出した。


「管理契約は三年前に更新された。相手はグランデル商会。町の南にある貯水池と、運河へ水を流す分水門を管理している」


 彼は契約書を石積みの上に広げた。


 紙は黄ばんでいたが、文字は濡れないインクで書かれていた。商会が誇る特殊なインクだ。王都で見たものと同じ黒さに、リセの胸がざわついた。


「町が水路を使う代わりに、毎年一定量の水を供給する。商会が管理を怠った場合は、町が契約を解除できる」


「ずいぶん町に有利な契約ですね」


「そう見える」


 ノアの声は低かった。


 リセは最初の頁から指で追った。第一条、貯水池の管理。第二条、分水門の点検。第三条、各季節に定められた供給量。言葉は整然としている。だが、指先に冷たい痛みが走った。


「第三条の供給量は、どこへ届けることになっていますか」


「町の運河だ」


「契約書には、そう書かれていません」


 ノアが眉を動かした。


 リセは条文を指で示した。


「ここには、『南貯水池より町内各所へ必要量を供給する』とあります。でも、町内各所の定義がない。運河、船渠、商会の倉庫、どれを含むのか決められていません」


「それだけなら、表現の曖昧さだろう」


「はい。ですが、第四条には『供給量は、受領側の申請に基づき調整できる』とあります」


「町は申請を出している」


「誰が、どの範囲の水を申請するのですか」


 ノアは黙った。


 リセは頁をめくった。第四条の末尾には、細い文字で但し書きが付いている。


「『ただし、貯水池の保全に必要な水量を除く』。保全に必要な水量の計算方法がありません。商会が保全を理由に水を止めても、契約違反かどうか判定できない」


「実際、商会は保全作業中だと言っている」


「いつからですか」


「二か月前からだ」


「二か月も続く保全作業なら、作業計画か完了予定日の記録があるはずです」


「提出を求めた。返事は、契約上その義務はない、だった」


 ノアは書類を畳みかけた。


「だから、町は水を失い続けている」


 運河の底には、乾いた泥がひび割れていた。細い水がその溝を縫うように流れている。岸辺の木桶には、昨夜汲まれた水がわずかに残っていた。近くの家から女が出てきて、桶を覗き込み、ため息をついた。


 リセは契約書へ視線を戻した。


「もう一つあります」


「何だ」


「第七条です。『管理上の判断について、商会は水路監督官の指示に従う』とあります」


「それがどうした」


「第八条には、『監督官の指示によって生じた損害について、商会は責任を負わない』とある」


 ノアの目が契約書に落ちた。


「私が水を流せと命じたあと、貯水池が空になれば、損害は私の責任になる」


「そう読めます。けれど、第七条に従う義務があるなら、商会は指示を拒めない。拒めないのに、結果だけを監督官の責任にする。条文同士が食い違っています」


「君の力で分かるのか」


 初めて、ノアが正面から尋ねた。


 リセは少し迷った。王都では、その力を知られたことで便利な道具として扱われた。契約の矛盾を見抜くたび、相手は彼女に全てを判断させようとした。だが、彼女の力が読めるのは、書かれた言葉の間だけだ。誰が水を止めたのか、何を隠しているのかまでは分からない。


「矛盾のある場所は分かります。でも、偽りかどうかを決める力ではありません」


「なら、昨夜の言葉は?」


「偽りの可能性がある、と言いました。契約書に嘘があると断定したわけではありません」


 ノアはしばらく黙っていた。


 風が吹き、書類の端がめくれた。彼は片手で押さえながら、淡々と言った。


「商会は、町が水を使いすぎたせいで供給を減らしたと言っている」


「町の申請書を見せてください」


「商会の保管だ」


「水門の点検記録は?」


「それも商会だ」


「では、町側に残っている記録を探しましょう」


 ノアはわずかに首を傾けた。


「君は商会から雑用係として送られたのではないのか」


「そう聞いています。でも、雑用の内容に契約書を読むなとは書かれていません」


「口が減らないな」


「王都でも、よく言われました」


 ノアは笑わなかった。ただ、書類を革袋へ戻す手を止めた。


「今日、町の水番に会う。古い記録を持っている者がいるかもしれない」


「私も行きます」


「商会の出張所へ報告する必要がある」


「報告には、同行したと書けばいいでしょう」


「危険かもしれない」


「契約書に危険の所在は書かれていません」


 ノアは初めて、ほんのわずかに口元を緩めた。


「契約書に書かれていないことまで、気にするのか」


「書かれていないからこそ、気にします」


 二人は運河沿いの道を歩き始めた。


 町の中心には、干上がった水路を挟んで市場が広がっていた。魚を売る店には氷がなく、野菜を並べる農家は泥の付いた根を数えるように扱っている。人々の視線は、灰色の外套を着たノアと、見慣れない女であるリセへ何度も向けられた。


 水番の詰所は、古い水車小屋の脇にあった。扉を叩くと、白髪の男が顔を出した。


「監督官か。今日は何だ」


「三年前の管理契約について聞きたい」


 ノアが言うと、男の目がリセへ移った。


「商会の人間か」


「元はそうです」


「元?」


「今は、契約を読む仕事を探しています」


 男は警戒を解かなかったが、やがて二人を中へ通した。棚には水位を記した木札と、煤けた帳面が積み上げられている。


「商会は、町が必要以上に水を取ったと言っている。しかし、水番の記録では逆だ。二年前の夏から、流れは少しずつ減っている」


 男が古い帳面を開く。


 リセはその頁に触れた。


 冷たい痛みはなかった。帳面の数字は一見正しく並んでいる。だが、日付の間に不自然な空白があった。水位が急に下がった三日間だけ、記録が抜け落ちている。


「この三日間の記録は?」


「商会の検査員が持っていった。返ってきていない」


「検査員の名前は」


 男は答えようとして、口を閉じた。


 そのとき、詰所の外で足音が止まった。


 窓の隙間から、黒い袖が見える。グランデル商会の紋章が刺繍されていた。


 ノアが静かに立ち上がる。


「記録を閉じろ」


「なぜですか」


「見張られている」


 リセは帳面の空白を見つめた。契約書の矛盾と、消えた三日間の記録。その二つはまだ一本の線にはならない。


 けれど、誰かが水の流れだけでなく、記録の流れまで止めている。


 外から、扉を叩く音がした。


「水路監督官ノア。グランデル商会の者だ。契約確認のため、入るぞ」


 ノアはリセを見た。


「ここから先は、君が選べ」


 リセは帳面を閉じ、立ち上がった。


「確認したいことが、まだ残っています」


 扉の向こうで、再び拳が鳴った。 天天中彩票有

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