第9話 舞踏会の練習ですわ!
来月、王宮で大規模な舞踏会が開かれることになった。
レオポルドの一件によって王宮内の空気は大きく変わったものの、社交界まで永遠に沈黙しているわけにはいかない。
むしろ、王家としては「すでに問題は解決した」という姿勢を示す必要があるらしく、各家の主要な当主と令嬢たちへ招待状が送られてきた。
そして当然のように、わたくしのもとにも一通届いた。
「舞踏会、ね……」
招待状を眺めながら呟く。
「何か問題でも?」
向かいに座っていたヴィンセントが、紅茶を飲みながら尋ねる。
「問題というほどではないけれど、久しぶりだから少し面倒だと思っているの。以前なら殿下と踊ることが決まっていたから、事前に一度くらい練習すれば済んだのだけれど……」
「では、私と練習しましょう」
「……」
「どうしました?」
「いえ、あまりにも自然に言うものだから」
「何か不自然ですか?」
「あなたとわたくしは、まだ正式な婚約者ではないでしょう」
「ですが、将来的にはそうなる予定です」
「その予定をあなた一人で確定させないで」
「では、あなたはどうお考えですか?」
さらりと問い返され、言葉に詰まる。
「……今は、その話をしている場合ではないでしょう」
「なるほど。では舞踏会の練習を優先しましょう」
話を逸らされた。
けれど、わたくしもそれ以上追及できず、その日の午後、二人で大広間へ向かうことになった。
音楽が流れる。
ヴィンセントが手を差し出した。
「どうぞ」
「……本当にあなたと踊るの?」
「そのためにここへ来たのでしょう?」
「そうだけれど……」
仕方なく手を重ねる。
次の瞬間。
「近いわ」
「これが普通です」
「普通ではないでしょう。もう少し離れて」
「これ以上離れたら、正確にリードできません」
「そんなに密着する必要はないでしょう」
「密着?」
ヴィンセントが少しだけ笑った。
「今の距離で密着と呼ぶなら、舞踏会に出たら大変なことになりますよ」
「……何が言いたいの?」
「いえ。あなたが思っている以上に、ダンスとは距離の近いものだということです」
「知っているわよ。ただ、あなたの場合、必要以上に近いの」
「必要以上ではありません」
「絶対に必要以上よ」
彼は楽しそうに笑った。
「では、どの程度なら許容できますか?」
「そんなもの、自分で判断して」
「それでは困ります。私はあなたに嫌な思いをさせたくありませんから」
そう言われると、強く言い返せなくなる。
「……今より少しだけ離れて」
「分かりました」
彼が半歩下がる。
「これで?」
「ええ。ちょうどいいわ」
「では始めます」
音楽に合わせて足を運ぶ。
一歩、二歩。
ヴィンセントの動きは驚くほど滑らかだった。
力を入れているようには見えないのに、こちらが次にどこへ動けばいいのか自然と分かる。
「……上手ね」
「ありがとうございます。もっと褒めていただいても構いませんよ」
「褒めすぎると調子に乗るでしょう?」
「あなたからの言葉なら、いくらでも調子に乗れます」
「それは困るわね」
「残念です」
曲が進む。
ターンをした瞬間、わたくしの足が彼の靴に触れた。
「ご、ごめんなさい!」
「大丈夫です」
「今のは事故よ。決してわざとでは――」
「分かっています。そんなに慌てなくても大丈夫ですよ」
「でも、あなたの靴を……」
「靴くらい、いくらでも買えます。それより、あなたが転ばなくてよかった」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
「……そういうところは、本当に優しいのね」
「あなたに対してだけかもしれません」
「またそういうことを……」
「本当のことですよ」
わたくしは視線を逸らした。
それから何度か繰り返して練習しているうちに、最初のぎこちなさは消えていった。
身体が自然に動く。
ヴィンセントの手に導かれながら、音楽に合わせて回る。
不思議なくらい楽しい。
「エヴァンジェリン」
「何?」
「少しだけ、私に体重を預けてください」
「え?」
「次のステップで身体を支えます。今のままだと、あなたが無理に姿勢を維持しているので」
「でも――」
「大丈夫です。私を信じてください」
その言葉に、わたくしは小さく頷いた。
身体を預ける。
すると、本当に何の不安もなかった。彼の腕がしっかりと支えてくれる。次第に曲が終わり、静寂が戻る。けれど、なぜか手を離すのが惜しく感じられた。
「……上手く踊れたわね」
「ええ。とても綺麗でした」
「ありがとう」
「本番も私と踊ってください」
「もちろん、そのつもりよ」
「それなら安心しました」
ヴィンセントが微笑む。
そのまま、少しだけ距離を詰めた。
「……ヴィンセント?」
「何です?」
「近いわ」
「先ほどまでより、少し近づいただけです」
「それを近いと言っているの」
「舞踏会では、このくらいになりますよ」
「……練習だから問題なのよ」
「では、本番ならいいのですね?」
「そういう意味では――」
言葉が止まる。
ヴィンセントが楽しそうに目を細めた。
「今、何か言いかけました?」
「何も言っていないわ」
「そうですかね?」
「........そうよ」
「では、当日までにもう少し練習しておきましょう」
「どうして?」
「あなたが私の近くにいることに慣れていただくためです」
「……それは必要なのかしら」
「私には必要です」
即答だった。
思わず笑ってしまう。
「あなた、本当に自分のことに関しては遠慮がないのね」
「ええ。ただ、あなたに嫌われることだけは怖いですよ」
その言葉だけは、妙に真っ直ぐだった。
わたくしは彼を見る。
「……嫌いになるつもりなんてないわ」
「それを聞けただけで、今日の練習は十分な成果がありました」
「大げさね」
「私にとっては大げさではありません」
また、胸の奥が騒がしくなる。
けれど。
今度は目を逸らさなかった。
「……じゃあ、もう一曲だけ練習しましょうか」
「喜んで」
再び音楽が流れ始める。
今度は、最初より少しだけ自然に手を重ねた。
そのことを、わたくし自身が一番驚いていた。
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