第8話 暖かい目で見守られてるような....?
穏やかな日々というものは、案外、油断したところから人を困らせる。
レオポルドの一件が片づき、王都に漂っていた緊張も少しずつ薄れてからというもの、わたくしの生活は驚くほど静かになっていた。
もちろん、王国の政務まで消えたわけではない。
食料価格の問題もまだ調査中だし、例の白百合の印についても気になっている。けれど、ヴィンセントに「一日くらい仕事を忘れても国は滅びません」と言われて以来、以前よりも意識して休むようにはしていた。
午前中に書類を片づけ、昼食をゆっくり取る。
午後には庭を散歩して、疲れたら紅茶を飲む。
――そんな生活にも、ようやく慣れてきたところだった。
「エヴァンジェリン様、こちらをお預かりしております」
午後のお茶を終えたところで、侍女が小さな箱を持って入ってきた。
「わたくしに?」
「はい。先ほどヴィンセント様がお持ちになりました」
「……また?」
思わずそう口にすると、侍女が微笑ましそうに目を細めた。
「はい。また、でございます」
「その言い方、何か含みがない?」
「いいえ、何も」
明らかに何か含んでいる。
けれど問い詰めるより先に、侍女が箱を開いた。
中に入っていたのは、小さな銀の栞だった。
白百合を模した細工の中央に、淡い青色の石が一粒だけ嵌め込まれている。華美ではないのに品があり、光を受けるたびに花弁がきらりと輝いた。
「……綺麗」
思わず本音が漏れる。
「お気に召しましたか?」
「ええ。とても素敵だわ。でも、どうしてこれを?」
「ヴィンセント様が、『以前、お嬢様が読書中に栞を探していらっしゃったので』と仰っていました」
「……そんなことまで覚えていたの?」
「はい。それから、『彼女は気に入った本ほど何度も読み返すので、長く使えるものがいい』とも」
わたくしは栞を指先で摘まんだまま固まった。
確かに数日前、一度だけ栞をなくした。
ほんの些細な出来事だったし、わたくし自身は翌日には忘れていたくらいだ。
それなのに、彼は覚えていたらしい。
「……あの人、わたくしのことを観察しすぎではないかしら」
「それだけ大切に思われているということでは?」
「あなたまでヴィンセントの味方なの?」
「味方というより、最近のお二人を見ていれば自然とそういう感想になるだけでございます」
「最近の二人って……」
言いかけたところで、扉が開いた。
「どうやら届いたようですね」
「……噂をすれば」
ヴィンセントが入ってくる。
「これはあなたが贈ったの?」
「ええ。以前、栞を探して困っていたでしょう?」
「一度だけよ」
「一度でも困っていたことには変わりありません」
「でも、わたくしはもう新しい栞を買っていたわ」
「存じています」
「なら、どうして?」
ヴィンセントは少しだけ考えるように首を傾けた。
「新しいものを買ったからといって、私が贈ってはいけない理由にはならないでしょう?」
「……そういう理屈になるのね」
「それに、あなたが本を読んでいる姿を見るのが好きなのです。だから、その時間に使うものなら、贈り物として悪くないと思いました」
「…………」
何でもない顔で言うものだから、こちらのほうが困る。
「あなた、最近こういう贈り物が多すぎない?」
「そうでしょうか」
「そうよ。花もいただいたし、お菓子も本も、それから先日の髪飾りまで。まだ正式に婚約を結んだわけでもないのに、これではまるで――」
そこで言葉を止めた。
「まるで?」
ヴィンセントが楽しそうに促す。
「……何でもないわ」
「そこまで言っておいて?」
「......言わないわよ」
「残念ですね」
絶対に楽しんでいる。
わたくしは栞を箱に戻そうとしたが、その前にヴィンセントが一言付け加えた。
「でしたら、今後は贈り物を減らしましょうか」
「……え?」
思わず顔を上げる。
「あなたが負担に感じているのであれば、もちろん控えます。私はあなたに喜んでほしくて贈っているのであって、困らせたいわけではありませんから」
その言葉を聞いた途端、胸の奥が妙にざわついた。
「……別に、負担とは言っていないでしょう」
「はい?」
「ただ、少し頻度が多いと思っただけで……その、いただくこと自体は嫌ではないわ」
「本当に?」
「本当よ」
「では、これからも贈っていいのですね」
「……ほどほどにしてくれれば」
ヴィンセントが微笑む。
「分かりました。では、ほどほどにします」
「本当に分かっているのかしら」
「ええ。あなたが困らない程度に、毎日何か一つ」
「それは決して『ほどほど』ではないわ!」
思わず声を上げると、彼が楽しそうに笑った。
「冗談です」
「絶対に半分くらい本気だったでしょう」
「否定はしません」
「もう……」
わたくしが呆れて栞を見ると、ヴィンセントがふと表情を和らげた。
「でも、一つだけ本当のことを言うなら」
「何?」
「あなたが嬉しそうにしているのを見るのが、私は好きなんです」
その声音には、さっきまでの冗談めいた軽さがなかった。
「だから、あなたが何気なく欲しいと言ったものや、好きだと言ったものを覚えていたい。あなた自身が忘れてしまうような小さなことでも、私にとっては覚えておきたいことなんですよ」
返事ができなかった。
こういうところだ。
彼はいつも、ふざけているように見せながら、最後にはこちらの心臓に一撃を入れてくる。
「……あなた、本当にずるい人ね」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めていないわ」
「それでも嬉しいですよ」
すると、部屋の隅から侍女の咳払いが聞こえた。
「お嬢様」
「何?」
「そろそろ、私たちは退室したほうがよろしいでしょうか」
「どうしてそうなるの?」
「いえ、栞についての話し合いが大変盛り上がっているようでしたので」
ヴィンセントが肩を震わせる。
わたくしは額を押さえた。
「……出ていっていいわ」
「かしこまりました」
侍女が部屋を出ていく。
扉が閉じた瞬間、ヴィンセントが笑い始めた。
「何がおかしいの?」
「いえ。最近、屋敷の皆が私たちを見る目が変わったなと思いまして」
「やっぱりあなたも気づいていたのね」
「ええ。以前は私が屋敷に来ると、皆さんもっと緊張していたのですが、最近は妙に温かい目で見守られている気がします」
「それ、絶対にあなたのせいよ」
「そうでしょうか?」
「そうよ。贈り物を毎日のように持ってきたり、休憩時間になると当然のように隣に座ったりするからでしょう」
「では、もっと堂々としても問題ないということですね」
「そういう意味ではないわ!」
また笑い声が響く。
わたくしは呆れながらも、手の中の栞を見つめた。
白百合の花が、午後の陽射しを受けて小さく輝いている。
「……ありがとう」
今度は、素直に言えた。
「大切に使います」
「はい」
ヴィンセントは満足そうに微笑んだ。
その顔を見ていると、胸の奥が不思議と温かくなる。
――本当に困った人だ。
わたくしがこの人の隣にいることを、少しずつ、当たり前にしてしまうのだから。
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