第7話 微量の恐怖
その日は朝から雨だった。
窓ガラスを細かな雨粒が絶え間なく叩き、庭の木々は濡れた葉を重そうに揺らしている。
こういう日は、書斎に籠もるのが一番いい。
少なくとも、わたくしはそう思っていた。机の上には、昨日までに集めた資料がある。
王都へ流れ込んだ小麦の量。
商人たちの仕入れ先。
不可解な倉庫の所有者。
そして、あの白百合の印。
あと少しだけ調べれば、何か繋がる気がする。
「……あと少しだけ」
そう呟いてペンを取った瞬間、背後から声がした。
「その台詞を聞くのは、今日で三度目です」
「……いつからいたの?」
「最初に『あと少しだけ』と仰ったところからです」
振り返る。
ヴィンセントが扉の前に立っていた。
「どうしてあなたは、わたくしが仕事を始めると必ず現れるの?」
「昨日の経験から学習しました」
「まるで私が監視されているみたいじゃない」
「監視ではありません。見守りです」
「言い換えただけでしょう」
「では、愛情深い見守りということで」
「さらに悪化したわね」
ヴィンセントは笑いながら机へ近づき、わたくしの手元の資料へ視線を落とした。
「食料問題の調査ですか」
「ええ。昨日、あなたが街へ連れ出したせいで一日遅れたから、今日は少し取り戻そうと思って」
「その言い方では、私があなたの時間を奪ったように聞こえますね」
「実際、半日は奪われたわ」
「では、その半日が無駄だったと思いますか?」
「……そうは言っていないでしょう」
「なら問題ありません」
そう言って彼は資料を閉じた。
「ちょっと」
「今日は休みです」
「昨日も休んだわ」
「ええ。ですから今日もです」
「あなた、私を甘やかしすぎではないかしら」
「ようやく気づきましたか」
あまりに堂々としているので、思わず笑ってしまった。
ヴィンセントはそのまま侍女へ紅茶を頼み、わたくしを応接室へ連れていく。
暖炉の火が静かに揺れていた。
雨音が遠く聞こえる。
紅茶の香りが広がる。
何も急ぐ必要のない時間だった。
「こういう日も悪くないでしょう?」
「……そうね」
カップを手に取り、窓の外を見る。
「雨の日って、不思議ね。外が静かなだけで、時間までゆっくり流れているように感じるわ」
「あなたが普段、時間を追いかけすぎているだけでは?」
「否定できないわね」
少し笑ったあと、ふと真面目な顔になる。
「ヴィンセント」
「はい」
「あなたは、怖くないの?」
「何がです?」
「これからのことよ」
彼は答えを急がなかった。
「わたくしは、この世界がゲームだと思っていた頃には、未来を知っているつもりだった。誰が何をするのか、どんな事件が起こるのか、どこで危機が訪れるのか――少なくとも大筋は分かっていると思っていたの」
カップの中で紅茶が小さく揺れる。
「でも、現実は違った。市場の件も、白百合の印も、わたくしの知っている物語には存在しない。つまり私は、未来を知っているわけではなかったのよ。ただ、ゲームに描かれていた部分を知っていただけだった」
「それに気づいたから、不安になった?」
「ええ」
自分でも驚くほど素直に答えていた。
「今までは、何か起きても『ゲームではこうだった』という逃げ道があったの。でも、もうそれが使えない。これから先、何が起こるのか分からないと思うと……少しだけ怖いわ」
ヴィンセントはしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「それなら、もう『知っている未来』を頼りにしなくてもいいのではありませんか?」
「……どういう意味?」
「あなたはもう、ゲームの登場人物ではないでしょう」
その言葉に、息を呑む。
「ゲームに書かれていなかった市場の問題も、昨日の菓子店も、今日の雨も、全部あなたが実際に生きた時間です。なら、これから先も同じですよ。知らないことが起きたら、そのときに考えればいい。失敗したらやり直せばいい。あなた一人で答えを出す必要もありません」
「でも、国に関わることなら――」
「国より先に、あなた自身を大切にしてもいいでしょう」
「そんなことをしたら、無責任では?」
「いいえ」
ヴィンセントは、迷いなく答えた。
「責任を果たすことと、自分を犠牲にすることは同じではありません。私はそこだけは、何度でもあなたに言います」
その言葉は、不思議なほど胸の奥へ染み込んだ。
「……あなたは、本当に私を甘やかすのね」
「ええ。自覚しています」
「もし私が、今後も無茶をしたら?」
「止めます」
「何度でも?」
「何度でも」
「私が怒っても?」
「怒ったあなたも素敵ですから、気にしません」
「……そういうところ、本当にずるいわ」
笑いながら、わたくしはソファへ背を預けた。
雨音が心地いい。
瞼が少し重くなる。
「……少しだけ眠ってもいいかしら」
「もちろんです」
「仕事は?」
「私が預かります」
「では……お願いしようかしら」
目を閉じる。
しばらくして、隣から書類をめくる音が聞こえ始めた。ヴィンセントは本当に、私の代わりに仕事を始めたらしい。
その音を聞きながら、わたくしはぼんやりと思った。
前世では、物語の結末を知ることが安心だった。
決められた選択肢を選べば、決められた未来へ辿り着ける。
けれど今は違う。
未来は分からない。
正解も決まっていない。
それでも――
隣に、この人がいる。
それだけで、知らない明日へ進んでみようと思える。
やがて眠りへ落ちる直前。
遠くでヴィンセントの声がした。
「おやすみなさい、エヴァンジェリン。……明日のことは、明日一緒に考えましょう」
雨はまだ降っていた。
けれど、その音はもう不安には聞こえなかった。
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