第6話 これは私自身の物語なのかもしれません
翌日。
わたくしは、ヴィンセントに連れ出されていた。
「どうして王都の平民街まで来る必要があるの?」
「昨日、あなたが『たまには何の目的もなく街を歩いてみたい』と言ったからです」
「……わたくし、そんなことを言ったかしら」
「言いましたよ。紅茶を飲みながら、庭を眺めているときに」
「よく覚えているわね」
「あなたに関することなら、大抵のことは覚えています」
あまりにも自然に言うので、こちらが反応に困ってしまう。
「そういう台詞を、もう少し考えてから口にしてくれないかしら」
「なぜです?」
「こちらが困るからよ」
「困らせたいわけではありません。むしろ、あなたが嬉しそうにしてくれればと思っているのですが」
「……そういうところよ」
ヴィンセントは不思議そうに首を傾げた。
本人には、本当に自覚がないらしい。
王都の大通りは、休日ということもあって普段以上に賑わっていた。
露店には果物や焼き菓子が並び、子どもたちは親の手を引いて走り回っている。貴族街では見かけないような小さな店も多く、わたくしは歩くたびに足を止めてしまった。
「そんなに珍しいですか?」
「ええ。こちらへ来る機会なんてほとんどなかったもの。貴族の買い物は、店側が屋敷まで商品を持ってきてくれるでしょう?」
「それでは、今日はいくらでも見て回ってください」
「……あなた、私を散財させるつもり?」
「まさか。むしろ財布は私が預かっています」
「それなら余計に危険ではないの」
そんなやり取りをしていると、甘い香りが漂ってきた。
視線を向けると、小さな菓子店の前に蜂蜜を使った焼き菓子が並んでいる。
思わず立ち止まったわたくしを見て、ヴィンセントが笑った。
「食べたいなら、そう言えばいいのに」
「……別に、そこまででは」
「では通り過ぎましょうか」
「…………」
ヴィンセントが歩き出す。
わたくしも続く。
十歩ほど進んだところで、彼が突然振り返った。
「やっぱり買いましょう」
「あなた、今のは私を試したでしょう?」
「ええ。ですが、あなたは意地を張ると本当に欲しいものまで諦めてしまうので」
「……よく見ているのね」
「見ていますよ。あなたが思っている以上に」
結局、焼き菓子を二つ買った。
店を出てすぐ、ヴィンセントが片方を差し出してくる。
「どうぞ」
「一つでいいわ」
「あなたが『美味しい』と言ったときの顔を、もう一度見たいので二つ買ったのです。片方は私が食べます」
「……それ、理由になっているようで全然なっていないわ」
「私にとっては十分な理由ですよ」
仕方なく受け取る。
一口食べると、蜂蜜の甘さと香ばしい生地が口の中に広がった。
「……美味しい」
「でしょう?」
「あなたも食べてみればいいのに」
「では」
そう言って彼も一口食べる。
「なるほど。確かに美味しいですね」
「でしょう?」
「ですが、私はあなたが食べているところを見ているほうが好きです」
「…………」
「どうしました?」
「今の発言を取り消すつもりはないの?」
「ありません」
「そう……」
わたくしは焼き菓子をもう一口かじった。
顔が熱い。
たぶん、菓子のせいではない。
その後も本屋へ立ち寄り、花屋を覗き、雑貨店では予定以上に時間を使った。
最後に入った銀細工の店で、白百合を模した髪飾りを見つけた。
「……綺麗」
銀の花弁に、小さな白い石が埋め込まれている。
以前なら、きっと買わなかった。
婚約者だったレオポルドに何か言われることを考えれば、身につけるもの一つでさえ慎重になっていたからだ。
けれど今は。
「似合うと思いますよ」
「まだ身につけていないのに?」
「あなたなら、何を身につけても似合うでしょう」
「……本当に、今日は遠慮がないわね」
「今まで遠慮していた分を取り戻しているだけです」
ヴィンセントは店員に声をかけ、髪飾りを受け取ると、わたくしへ差し出した。
「贈ってもいいですか?」
「自分で買えるわ」
「知っています。だからこそ、私から贈りたいのです」
「……理由を聞いても?」
「今日の記念です」
「何の?」
「あなたと、何の義務もない一日を過ごせた記念ですよ」
その答えが、妙に嬉しかった。
「……では、ありがたくいただくわ」
店を出た頃には、空が夕焼けに染まっていた。
街の人々が家路につく中、わたくしたちも並んで歩く。
ふと、ヴィンセントが足を止めた。
「どうしました?」
「少し待ってください」
彼はわたくしの髪へ手を伸ばし、先ほどの髪飾りをそっと留め直した。
「少し曲がっていました」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
彼の指が離れる。
その一瞬が、妙に名残惜しく感じられた。
「帰りましょうか」
「ええ」
歩き出す。
今日一日、何か大きなことを成し遂げたわけではない。
王都の問題も解決していない。
白百合の印について新しい手掛かりが見つかったわけでもない。
それでも。
不思議なくらい、満たされていた。
前世で遊んだ『白百合の誓い』には、こんな一日は存在しなかった。
攻略対象とのデートイベントなら、何度も見た。
甘い台詞も、華やかな舞踏会も、運命的な出会いも知っている。
けれど――
何気ない店で焼き菓子を買って。
くだらないことで笑って。
帰り道に髪飾りの位置を直してもらう。
そんな時間は、一度も描かれていなかった。
だからこそ、今になって思う。
ゲームに描かれていなかったからこそ。
これは誰にも決められていない、わたくし自身の物語なのかもしれない。
そしてその隣には。
いつの間にか、ヴィンセントがいる。
それが、何より嬉しかった。
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