第5話 私はそんなあなたを尊敬しています
翌朝。
わたくしはいつもより早く目を覚ました。
窓の外は薄明るく、朝靄の残る庭にはまだ誰の姿もない。昨夜のうちに整理しておいた資料は机の上に積まれているし、食料価格の高騰についても、商人たちの仕入れ先を一つずつ辿っていけば、今日中にはある程度の輪郭が見えてくるはずだった。
――少なくとも、わたくしはそう思っていた。
「お嬢様。朝食の後はこちらのお部屋でお過ごしになるよう、ヴィンセント様から申しつかっております」
朝食を終えたわたくしの前に、侍女が一枚の紙を置いた。
「……ずいぶん具体的な指示ね」
そこには、今日一日の予定が事細かに書かれていた。
午前は読書。
昼食後は庭園の散歩。
午後は紅茶。
夕食前には入浴。
そして夜は、普段より早く休むこと。
最後には、ご丁寧にもこう記されている。
『仕事を始めようとした場合、私が直接止めに行きます』
「…………」
「お嬢様?」
「これは予定表ではなく、監視計画ではないかしら」
侍女が笑いを堪えるように俯いた。
「さらに申し上げますと、ヴィンセント様は『昨日も遅くまで資料をご覧になっていたので、今日は絶対に休ませてください』と仰っていました」
「本人が直接言えばいいでしょうに。なぜわざわざ侍女を通すのかしら」
「そのほうが、お嬢様が逃げにくいと判断されたのでは?」
「……あの人、私のことを何だと思っているの?」
「仕事を見つけると、食事も睡眠も忘れてしまう方かと」
「そこまでではないわ」
「昨日の夕食後も、書斎へ戻られましたよね」
「…………少しだけよ」
「その『少しだけ』が二時間でした」
返す言葉がなくなった。
どうやら屋敷の使用人たちは、いつの間にかヴィンセント側へ寝返っているらしい。
仕方なく紙を畳んだところで、背後から聞き慣れた声がした。
「その顔を見る限り、私の判断は間違っていなかったようですね」
振り返ると、ヴィンセントが立っている。
「いつからいたの?」
「『仕事を見つけると食事も睡眠も忘れてしまう』というあたりからです。なかなか正確な評価だと思いませんか?」
「本人の目の前で使用人の報告を採点する人がどこにいるのよ」
「ここにいます」
そう言って、彼はわたくしの机へ近づいた。
そして、昨日までわたくしが調べていた資料を見つけると、何の躊躇いもなくまとめて抱え上げる。
「ちょっと、何をするの?」
「回収です。昨日の市場の件については、こちらで引き継ぎます」
「でも、あれはわたくしが――」
「あなたが調べる必要はありません」
「必要があるかどうかを決めるのはわたくしでしょう?」
「ええ。本来なら」
ヴィンセントは資料を抱えたまま、穏やかにわたくしを見た。
「ですが、昨日のあなたを見ていると、仕事が必要なのではなく、仕事をしていないと不安なのではないかと思いまして」
胸を突かれた。
「……そんなこと」
「ありませんか?」
「……ない、とは言い切れないわ」
素直に認めると、ヴィンセントの表情がわずかに緩んだ。
「でしたら、なおさら今日は休んでください」
「どうしてそこまで休ませたいの?」
「簡単な話です。あなたが頑張っている姿を見るのが嫌だからではありません。むしろ逆ですよ。何かに向かっているときのあなたは、本当に楽しそうですし、私はそんなあなたを尊敬しています」
そこで彼は一度言葉を切った。
「ただ、尊敬しているからこそ、あなたが自分自身を後回しにするところだけは好きになれません」
「……ずいぶん勝手な言い分ね」
「そうかもしれません」
否定しない。
だからこそ、余計に困る。
「私は、あなたが国のことを考えている時間も、誰かを救おうとしている時間も大切にしたい。ですが、それと同じくらい、何の役にも立たない時間をあなたと過ごしたいと思っています」
「何の役にも立たない時間?」
「ええ。例えば、朝から何を食べるかで悩んだり、庭の花が去年より少し早く咲いたことを喜んだり、買った菓子が思ったより美味しくて二人で取り合ったり――そういう、後から記録に残す価値もないような時間です」
思わず笑った。
「あなた、案外欲張りなのね」
「今まで我慢していた分ですから」
「……我慢?」
「あなたがレオポルド殿下の婚約者だった頃は、当然ながら私があなたの隣にいる資格などありませんでしたから」
さらりと告げられて、言葉が止まる。
「ですが、今は違うでしょう?」
「……そうね」
「なら、少しくらい欲張っても許されると思いませんか?」
その問いに、わたくしはすぐには答えられなかった。
けれど。
「……今日くらいは、仕事をしないであげてもいいわ」
そう言うと、ヴィンセントは満足そうに笑った。
「ありがとうございます」
「何よ、その言い方。まるで私が聞き分けのない子どもだったみたいじゃない」
「子ども扱いするつもりはありません。ただ、あなたを大切にする権利くらいは、そろそろ私にも認めていただきたいと思っています」
また、そういうことを言う。
わたくしは誤魔化すように紅茶へ手を伸ばした。
「……では、今日一日だけ付き合ってあげるわ」
「一日だけ?」
「それ以上は保証しないわ」
「分かりました。では、明日また交渉しましょう」
「最初から明日の話をするのはやめなさい」
そう言いながら笑ってしまった。
たぶん、この人には敵わない。
王国の未来も。
白百合の印の謎も。
まだ何一つ解決していない。
それでも今日は、少しくらい立ち止まってもいいのだろう。
誰かに背中を押されるのではなく。
誰かが隣にいてくれることを確かめながら。
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