第10話 私の人生の隣
翌朝。
目を覚ました瞬間から、何となく身体がおかしかった。
頭が重い。
喉も少し痛い。
昨日の舞踏会の練習で思った以上に疲れたのだろう。そう考えたわたくしは、いつも通り身支度を整え、何食わぬ顔で朝食の席へ向かった。
「おはようございます、エヴァンジェリン様」
「おはよう」
侍女が紅茶を注いでくれる。
けれど、その香りを嗅いだ途端、なぜか食欲が失せた。
「……今日は紅茶はいらないわ」
「まあ。珍しいですね」
「少し疲れているだけよ。食事を取れば、そのうち治るでしょう」
そう言ってパンへ手を伸ばしたところで。
「その説明は採用できません」
背後から声がした。
振り返る。
ヴィンセントが立っている。
「どうして?」
「あなたが朝食を前にして何も食べていないからです」
「これから食べるところだったのよ」
「昨日なら、すでにパンを二つ取っていたでしょう」
「……」
「それに顔色が悪い。声も少し掠れていますし、いつもなら私が来る前に一度は書類の話を始めるのに、今日はまだ仕事の話をしていない」
「そこまで分かるものなの?」
「毎日見ていますから」
あまりにも当然のように言われて、反論できなくなる。
「とにかく、部屋へ戻りましょう」
「でも、今日は午後から――」
「予定は取り消しました」
「まだ最後まで言っていないわ」
「どうせ仕事でしょう?」
「……そうだけれど」
「なら、なおさらです」
わたくしが何か言うより早く、彼は侍女へ医師を呼ぶよう指示した。
しばらくして医師が診察すると、軽い風邪とのことだった。
「数日ゆっくり休めば問題ありません」
「ほら、大したことないでしょう?」
わたくしがそう言うと、ヴィンセントが呆れたように眉を上げる。
「医師が『休めば問題ない』と言ったのであって、『働いても問題ない』とは言っていませんよ」
「……細かいわね」
「あなたに関してだけは細かくなります」
その後、わたくしは完全に病人扱いされることになった。
昼には消化の良いスープ。
薬の時間になると、ヴィンセント自ら確認に来る。
水分を取ったかどうかまで確認される。
「ヴィンセント、わたくしは子どもではないのよ?」
「知っています。だからこそ、具合が悪いときくらい素直に人を頼ってほしいのです」
「でも、これくらいなら自分でできるわ」
「普段はそうでしょうね。ですが、今日くらいは私に任せてください」
そう言われると、強く拒めなくなる。
「……分かったわ」
「ありがとうございます」
「その『ありがとうございます』は何なの?」
「あなたが私を頼ってくれたことへのお礼です」
「そんな大げさなことではないでしょう」
「私にとっては大げさです」
ヴィンセントはそう言って、わたくしの枕元へ水を置いた。
「それから、今日は仕事のことを考えるのも禁止です」
「それは無理よ」
「では、条件を変えましょう。仕事のことを考え始めたら、私が別の話題を振ります」
「どんな話題?」
「昨日のダンスの続きをしましょう」
「病人にそんな話をするの?」
「では、あなたが昨日私の靴を踏んだ回数について――」
「やめて。もう忘れてちょうだい」
「私は鮮明に覚えていますよ」
「あなた、本当に性格が悪いわね」
「元気になってきましたね」
思わず笑ってしまう。けれど、笑ったせいか少し疲れた。
わたくしが枕へ背を預けると、ヴィンセントがすぐに気づいた。
「眠いですか?」
「少しだけ」
「では、眠ってください」
「あなたは?」
「私はここにいます」
「仕事があるでしょう?」
「終わらせてきました」
「いつの間に……」
「あなたが昼寝をしている間に」
「本当に何でもできるのね」
「あなたに心配をかけたくないので、急いだだけですよ」
その言葉に、胸が温かくなる。
「……ヴィンセント」
「はい」
「もし、あなたが風邪を引いたら、わたくしも同じように看病するわ」
「それは困ります」
「どうして?」
「あなたに看病してもらえるなら、風邪を治したくなくなりそうですから」
「……」
「冗談ですよ」
「今の間は何?」
「少し本気でした」
「やっぱり!」
わたくしが睨むと、ヴィンセントは声を上げて笑った。
「あなたが笑えるくらい元気なら、それで安心しました」
「……本当に、ずるい人」
「よく言われます」
「誰に?」
「今のところ、あなたにだけです」
しばらく沈黙する。窓の外では雨が降り始めていた。
薄暗い空。
静かな部屋。
暖炉の薪が弾ける音。
そして、すぐそばにいるヴィンセント。
わたくしは目を閉じた。
「……ねえ」
「はい」
「もう少しだけ、ここにいてくれる?」
自分でも驚くほど素直な言葉だった。
けれど、彼は笑わなかった。
「もちろんです。あなたが眠るまで、ずっとここにいます」
「……ありがとう」
「こちらこそ」
「何が?」
「頼ってくれてありがとうございます」
その言葉を聞いているうちに眠気が強くなり、わたくしは毛布へ身体を預けた。
「おやすみなさい、エヴァンジェリン」
「……おやすみなさい」
意識がゆっくり沈んでいく。
眠る直前、頭の片隅で思った。
前世の『白百合の誓い』には、こんな場面はなかった。
劇的な告白も、華やかな舞踏会も、運命的な出会いも、ゲームの中にはたくさんあった。
けれど――
風邪を引いた日に、仕事を全部引き受けて、薬の時間まで覚えて、眠るまで隣にいてくれる人のことは、どこにも描かれていなかった。
だからきっと。
これは、ゲームの物語ではない。
わたくし自身が選び取っている、わたくしの人生なのだ。
そして、その人生の隣には今。
当たり前のように、ヴィンセントがいる。
そう思うと、不思議なくらい安心できた。
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