第11話 まことに暇ですわ.....
風邪が治ってから五日が経った。
朝の空気には、病床に伏せていた頃とは明らかに違う軽さが戻っている。窓から差し込む陽射しも、数日前までなら少し眩しく感じていたというのに、今では薄いカーテン越しの光が心地よく、身体の奥までようやく普段通りに戻ったのだと実感できた。
だからこそ、わたしは朝食を終えると、何の迷いもなく執務室へ向かった。
休んでいる間に溜まった仕事は多い。
領地から届いた収支報告、王都の商会から送られてきた取引記録、孤児院への支援金に関する確認書、それに先日の小麦価格の異常な高騰について、追加で届いた報告書もある。
どれも後回しにできるものではない。
机の前に座り、積み上げられた書類を眺めると、わたしは自然と背筋を伸ばした。
「……さて、始めましょうか」
羽ペンを手に取った、その瞬間だった。
「何を始めるんです?」
背後から聞こえた声に、指先が止まった。
振り返らなくても誰なのか分かる。
「仕事ですわ」
「それは見れば分かります」
「でしたら、わざわざ尋ねなくてもよろしいでしょう?」
振り返ると、案の定、ヴィンセントが書類の束を抱えて立っていた。
いつも通り整えられた服装に、いつも通り落ち着いた表情。
けれど、その目だけが妙に静かだった。
こういうときの彼は、たいてい何かを企んでいる。
「……その顔、何か考えていますわね」
「失礼ですね。私はいつだって善良な宰相補佐ですよ」
「善良な方は、わたくしが仕事を始めようとした瞬間に現れて、意味ありげな顔をしません」
「まだ何もしていませんよ」
「これからする顔をしています」
そう指摘すると、ヴィンセントはほんの少しだけ目を細めた。
「本当に、最近は私の考えていることが分かるようになりましたね」
「毎日のように一緒にいれば、そのくらい分かりますわ」
「それは嬉しいですね」
「喜んでいる場合ではありません」
彼は笑いながらこちらへ歩み寄ると、机の上に並べられた書類を一枚ずつ確認していった。
そして最後の一枚に目を通したところで、深々と息を吐く。
「……これ、全部今日やるつもりですか?」
「もちろんです」
「昨日まで風邪を引いていた人間の発言とは思えませんね」
「もう治りましたもの」
「治ったからといって、病気になる前より働く必要はないでしょう」
言われてみれば、その通りなのかもしれない。
けれど、数日間も仕事を止めていたことへの焦りは、まだ身体のどこかに残っていた。
「休んでいた分を取り戻さなければなりませんわ。仕事は、わたくしが休んだからといって消えてくれるわけではありませんもの」
「ええ。ですが、あなたが無理をして倒れてしまえば、その仕事は結局誰かが引き受けることになります」
「それは……」
「つまり、今のあなたが一番避けるべきなのは、仕事が溜まることではなく、また倒れることです」
静かな声音だった。
責めているわけでも、叱っているわけでもない。
ただ、わたしが見ないふりをしていた部分を、彼は迷いなく指摘している。
ヴィンセントは机の端に手を置くと、少しだけ表情を和らげた。
「あなたは、誰かに迷惑をかけないことを随分と大切にしているようですね」
「当然でしょう。自分でできることなら、自分でやるべきですわ」
「その考え方が間違っているとは思いません。ただ、自分でできることを全部自分でやらなければならない、という考え方は、いつか自分自身を追い詰めます」
その言葉が胸に落ちた瞬間、わたしは何も言えなくなった。
思い当たることが多すぎた。
前世の記憶を取り戻してからというもの、わたしは何度も「自分がやらなければ」と思ってきた。
未来を知っているのだから。
他の人が知らないことを知っているのだから。
自分が動かなければ、誰かが傷つくかもしれないのだから。
そうやって理由を並べれば、無理をすることはいくらでも正当化できた。
けれど――。
「……わたくし、昔からそうだったのかもしれませんわね」
「何がです?」
「誰かに頼るより、自分で片付けたほうが早いと思ってしまうんです」
「知っています」
「そこは否定してくださらないのですね」
「長くあなたを見てきましたから」
「まだ、そこまで長くありませんわ」
「時間ではなく、濃さの問題ですよ」
さらりと言われて、思わず笑ってしまった。
「……本当に、あなたは調子がいいですわね」
「あなたが笑ってくださるなら、いくらでも調子に乗りますよ」
そう言うと、彼はわたしの手から羽ペンを取り上げた。
「では、本日の仕事はここまでです」
「待ってください!」
「却下します」
「まだ何も言っていませんわ!」
「どうせ『あと少しだけ』でしょう?」
「……なぜ分かるのです?」
「毎回そう言うからです」
反論できなかった。
結局、わたしは書類をすべて彼に預けることになり、半ば追い出されるように執務室を後にした。
ーーー
昼食を終えたあと、わたしは庭の長椅子に腰を下ろしていた。
初めのうちは落ち着かなかった。
手元に書類がない。
予定表もない。
次に何をするべきか考える必要もない。
ただ、風が木々の葉を揺らし、遠くで小鳥が鳴いている。
庭師が手入れしたばかりの花壇からは淡い花の香りが漂い、陽射しは暖かく、頬を撫でる風だけが少しひんやりしていた。
こんな時間を、わたしはいつから「無駄」だと思うようになったのだろう。
「暇ですわ……」
隣に座っていたヴィンセントが、紅茶を口に運びながら答えた。
「素晴らしいことですね」
「暇を素晴らしいと言う人、初めて見ましたわ」
「時間に追われている人間からすれば、暇ほど贅沢なものはありませんよ」
「でも、何もしていません」
「何もしない時間も、人生の一部でしょう」
わたしは返事をせず、目の前の庭を眺めた。
何かを成し遂げなくてもいい。
誰かを救わなくてもいい。
未来を変える必要すらない。
ただ、ここにいていい。
その事実が、思っていた以上に心地よかった。
「……ヴィンセント」
「はい」
「わたくし、少し分かった気がしますわ」
「何がです?」
「休むというのは、何もしないことではないのですね」
彼がこちらを見る。
「自分を壊さないために、明日の自分へ時間を残しておくこと……なのかもしれません」
ヴィンセントはしばらく黙っていた。
そして、穏やかな笑みを浮かべる。
「ええ。だから、あなたが休んでいることに罪悪感を持つ必要はありません」
「……あなたは、本当にそういうことを言うのがお上手ですわね」
「何か問題でも?」
「こちらが、あなたに頼ってもいいような気持ちになってしまうではありませんか」
「それは問題ではなく、私にとっては嬉しいことですよ」
胸の奥が、静かに温かくなった。
わたしは手元の紅茶へ視線を落とす。
「……では」
「はい?」
「今日は、もう少しだけここにいてもいいですか?」
「もちろんです」
彼の声には、迷いがなかった。
「むしろ、そう言ってくださるのを待っていました」
その言葉を聞きながら、わたしは小さく笑った。
未来を知っていると思っていた。
けれど、本当に大切な未来ほど、わたしは何も知らないのかもしれない。
たとえば――こんな何気ない午後が、自分の人生で一番好きな時間になることなんて、ゲームのどこにも書かれていなかったのだから。
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