第12話 なぜ私が泣きそうになっているの!?
ヴィンセントの誕生日が三日後だと知ったとき、わたしはなぜか、その日のことが妙に気になってしまった。
そのきっかけは、朝食の席で何気なく尋ねた一言だった。
「ヴィンセント。あなたのお誕生日は、いつですの?」
向かいに座っていた彼は、紅茶を口に運ぼうとして、その動きを止めた。
「……どうして突然、そんなことを?」
「婚約者になる方のお誕生日くらい、知っておきたいではありませんか」
「『なる方』ですか」
「そこは今、重要ではありませんわ」
「私としては、かなり重要なんですが」
ヴィンセントは楽しそうに笑ったが、わたしが睨むと、やがて観念したように答えた。
「三日後です」
「まあ。では、すぐですわね」
「祝っていただく必要はありませんよ」
あまりにもあっさり言われたので、わたしは思わず瞬きをした。
「どうしてですの?」
「毎年、特別なことはしていませんから。仕事をして、夜に少し良い紅茶を飲む。それで十分です」
「……寂しくありません?」
その問いに、彼はほんの少しだけ目を伏せた。
「慣れていますよ」
たったそれだけの言葉だった。
けれど、その「慣れています」という言葉が、なぜか長く耳に残った。
慣れている。
祝われないことに。
誰かに自分のための時間を使ってもらわないことに。
それを当たり前として受け入れてしまうほど、長い間。
わたしはそれ以上何も言わなかった。
ただ、その日の午後には、マーサを呼んでいた。
「マーサ。男性への誕生日プレゼントというのは、何が喜ばれるのでしょう?」
「まあ……」
マーサの目が、途端に楽しそうに細められる。
「お嬢様も、随分と可愛らしいことをお考えになるようになりましたね」
「変な意味ではありません!」
「まだ何も申し上げておりませんが?」
「顔に出ています!」
マーサは楽しそうに笑いながらも、いくつか候補を挙げてくれた。
時計。
手袋。
ネクタイ。
けれど、どれもしっくりこない。
ヴィンセントが普段何を使っているか思い浮かべているうちに、ふと気づいた。
彼は一日の大半を書類と向き合って過ごしている。
ならば、仕事で使うものがいい。
そうして選んだのが、一本の万年筆だった。
上品な装飾が施されているものの、派手すぎず、手に馴染む造りになっている。
きっと彼なら気に入ってくれる。
そう思った。
――ところが。
「エヴァンジェリン嬢」
「……なんでしょう?」
「最近、私を見るたびに何かを隠していませんか?」
「気のせいですわ」
「そうですか」
「ええ」
「では、その背中に隠している箱は?」
わたしは固まった。
ゆっくりと背後を振り返る。
当然、隠したつもりの箱がそこにある。
「……見えていましたの?」
「最初から」
「……」
どうしてこの人は、こういうところだけ無駄に鋭いのだろう。
「誕生日の贈り物ですわ!」
「三日後ですよ」
「知っています!」
「では、なぜ今?」
「あなたが勘が良すぎるせいです!」
「なるほど。私のせいでしたか」
「そうです!」
ヴィンセントは声を立てて笑った。
「では、誕生日まで楽しみにしておきます」
「絶対に開けないでくださいね」
「分かりました」
「中身を推測するのも禁止です」
「それは少々難しいですね」
「禁止です!」
「努力します」
そして三日後。
わたしは庭の東屋を飾りつけ、簡単ではあるけれど、いつもより少しだけ豪華な食事を用意した。
大げさなことはしたくなかった。
けれど、彼が「今日は自分のための日だ」と感じられるくらいには、特別な時間にしたかった。
「……これは?」
庭へやってきたヴィンセントは、テーブルの上を見て目を丸くした。
「お誕生日のお祝いですわ」
「私のために?」
「もちろんでしょう。ここにあなた以外の誕生日を祝う人がいますの?」
「いえ……そういう意味ではなくて」
彼は少し困ったように笑った。
「ここまでしてもらえるとは思っていませんでした」
「毎年何もしていないと言っていたでしょう?」
「ええ」
「なら、今年から変えればいいのです」
わたしは小さな箱を差し出した。
「どうぞ」
彼が蓋を開ける。
中に収められている万年筆を見た瞬間、彼の表情がわずかに変わった。
「……これを」
「ええ。あなた、毎日たくさんの書類を書いているでしょう? だから、少しくらい良いものを使っても罰は当たりませんわ」
ヴィンセントは万年筆を手に取った。
指先で軸を確かめるようにゆっくりと撫で、それからしばらく黙っていた。
「……気に入りませんでした?」
「逆です」
ようやく顔を上げた彼の目は、いつもの余裕を少しだけ失っていた。
「嬉しくて、何と言えばいいのか分からないんです」
その言葉に、わたしの胸が小さく揺れた。
「そんな、大したものではありませんわ」
「私にとっては大したものですよ」
彼は万年筆を見つめながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「これまで誕生日というものを、特別な日だと思ったことはありませんでした。生まれた日だからといって仕事が減るわけでもありませんし、翌日になればまた同じ一日が始まる。だから、特別に扱う理由もないと思っていたんです」
そこで彼は、ほんの少し笑った。
「でも、誰かが自分のために時間を使ってくれたと知ると……不思議ですね。ただの日だったはずなのに、急に意味のある一日になる」
「……」
「あなたが私の誕生日を覚えていてくれたことが、何より嬉しいんです」
胸の奥が熱くなる。
わたしは照れ隠しのように視線を逸らした。
「なら……来年も祝いますわ」
「来年だけですか?」
「再来年も」
「その次は?」
「欲張りですこと」
「あなたが祝ってくださるなら、いくらでも欲張りになります」
思わず笑ってしまった。
「では、ずっとですわ」
「ずっと?」
「ええ。あなたが嫌だと言うまで、何度でも」
ヴィンセントはしばらく黙った。
そして、少しだけ目を細める。
「それなら、長生きしなければいけませんね」
「当たり前ですわ」
その言葉は、ほとんど反射的に出た。
「わたくしの未来に、あなたがいないなんて困りますもの」
言ってから気づいた。
自分が何を口にしたのか。
頬が熱くなる。
けれど、ヴィンセントは笑わなかった。
「……その言葉は、大切にします」
静かな声だった。
「約束とは、未来を縛るためのものではなくて、今日を大切にするためのものなのかもしれませんね」
「どういう意味ですの?」
「『来年も祝う』と約束するから、今日を生きる理由が一つ増える。明日も、その次の日も同じです。そうやって今日を積み重ねていけば、いつか振り返ったときに、それが『ずっと』になっているのではないでしょうか」
わたしは、しばらく何も言えなかった。
ゲームの中には、こんな場面は存在しなかった。
決められたイベントも、用意された台詞も、攻略対象との好感度もない。
ただ、二人で過ごす誕生日がある。
それだけだった。
それなのに――。
わたしは、この日を誰かに奪われたくないと思った。
「……では」
わたしは小さく笑った。
「来年も、その次も、そのまた次も。今日と同じように、あなたの誕生日を祝わせてくださいな」
「喜んで」
ヴィンセントは万年筆を大切そうにしまった。
「では、そのためにも、明日からまた頑張りましょう」
「ええ」
そこで彼が微笑む。
「ただし、無理はしない程度に」
「……それ、わたくしに言っています?」
「もちろん」
「せっかく感動していたのに!」
わたしがプクーっと頬を膨らませると、彼は声を立てて笑う。夕暮れの庭に、その笑い声がいつまでも響いていた。
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