第13話 私の婚約者が未来の話をするときだけ少し弱くなる.....!?
翌朝。
目を覚ましてからも、わたしの胸には昨日のヴィンセントの言葉が残っていた。
――今日を積み重ねていけば、いつかそれが「ずっと」になる。
眠る前にも何度も思い返した言葉だった。
不思議なものだ。
以前のわたしは、未来を知っていることこそが自分を守るものだと思っていた。
ゲームの筋書きを知っている。
誰がどんな行動を取るのか知っている。
どこで何が起こるのかも、ある程度は分かっている。
だから、正しい場所に立って、正しい選択をすればいい。
そんなふうに考えていた。
けれど現実は、少しずつその考えを裏切り始めている。
ゲームにはなかった事件。
知らなかった商人たちの動き。
わたしの知識には存在しなかった人々の思惑。
そして何より――。
ヴィンセントとの関係。
ゲームの中で彼は、わたしが知っているような「登場人物」だった。
けれど今、わたしの隣にいる彼は、そんな一言では到底片づけられない。
笑う。
怒る。
からかう。
心配する。
そして時々、わたしが思っている以上に不安そうな顔をする。そのすべてを、わたしは最近になって少しずつ知り始めていた。
庭へ出ると、東屋の近くにヴィンセントがいた。
「おはようございます」
「........おはようございます」
彼は振り返り、わたしの顔を見るなり、わずかに笑った。
「今日はずいぶん早いですね」
「昨日のことを考えていましたの」
「私の誕生日?」
「ええ」
「……なら、少し安心しました」
「何がです?」
「昨日、あなたに『私の未来にあなたがいないなんて困る』と言われたので、こちらは朝まで眠れなかったんです」
「……」
顔が熱くなる。
「忘れてください」
「無理です」
「なぜ即答しますの!」
「そんな言葉をもらって、忘れられる人間がいたら、ぜひ会ってみたいですね」
「勢いで言っただけですわ!」
「では、勢いだったんですか?」
「……違います」
消え入りそうな声で答えると、彼は何も言わずに笑った。
その笑みには、からかうようなところがない。ただ嬉しそうだった。だから、わたしも視線を逸らさずにいられた。
「ヴィンセント」
「はい」
「あなたは……未来が怖いと思うことはありませんの?」
その問いを口にした瞬間、彼の表情からほんの少しだけ余裕が消えた。
それは、ほんの一瞬だった。
けれど、わたしには分かった。
「ありますよ」
彼は庭の向こうへ視線を向けた。
「私だって、何もかも平気なわけではありません。大切なものが増えれば、それを失う可能性まで考えてしまう。むしろ、何も持っていなかった頃より、今のほうが怖いことは多いですよ」
「……大切なもの」
「ええ」
それ以上を彼は言わなかった。
けれど、わたしには十分だった。
胸の奥が、少しだけ締めつけられる。
「わたくしは以前、未来を知っていることが安心につながると思っていました」
「今は違う?」
「ええ」
わたしはゆっくりと息を吐いた。
「未来を知っているからこそ、そこから外れることが怖かったんです。ゲームに存在しない出来事が起こるたびに、『次は何が起きるの?』と考えてしまう。自分が知っている物語から外れてしまえば、もう何を信じればいいのか分からなくなるような気がして」
言葉にしてみると、それは思っていた以上に根深い恐怖だった。
前世の記憶を取り戻してから、ずっと心のどこかにあったもの。
自分だけが、この世界の未来を知っている。
だから、自分が正しく動かなければならない。
けれど、それは同時に――。
自分が間違えたら、すべてが壊れてしまうという恐怖でもあった。
「……でも」
わたしは空を見上げた。
「最近は、少しだけ考え方が変わりました」
「どんなふうに?」
「未来を知っている必要なんて、本当はないのかもしれない、と」
ヴィンセントは黙って聞いている。
「未来を知っていれば、失敗しないと思っていました。でも、それは違った。未来を知っているから、自分で選ばなくてもいいと思っていただけなのかもしれません」
風が吹き、木々の葉が一斉に揺れる。
「知らないから、選ぶ。選んだから、その結果を受け止める。それが、自分の人生なのではないでしょうか」
ヴィンセントはしばらく黙っていた。
やがて、静かに笑う。
「……強くなりましたね」
「そうでしょうか」
「ええ。以前のあなたなら、未来を知っていることを手放すのを、もっと怖がっていたと思います」
「そうかもしれません」
「ただ――」
彼は少しだけ間を置いた。
「一人で強くなる必要はありませんよ」
その言葉に、わたしは顔を上げた。
「私も、未来が怖いと言いましたよね」
「ええ」
「なら、二人で怖がればいい」
あまりにも簡単に言われたので、わたしは一瞬、意味を理解できなかった。
「……二人で?」
「ええ。一人で抱えれば恐ろしいことでも、二人なら考えられる。二人で分からなければ、誰かに相談すればいい。三人でも四人でも構わない。未来が分からないからといって、一人で立ち続ける必要なんてないでしょう」
胸の奥に、温かなものが広がっていく。
「未来は、知っている人間だけのものではありませんよ」
ヴィンセントは穏やかに続けた。
「これから生きる人間が、自分たちで選んでいくものです」
その言葉は、不思議なほど心に残った。
未来を知っているから偉いわけではない。
知らないから劣っているわけでもない。
ただ、自分がこれから何を選ぶのか。
誰と歩くのか。
何を守りたいのか。
それを決めることこそが、未来なのだ。
「……では」
「はい?」
「これから先も、わたくしと一緒に未来を考えてくださいます?」
「もちろん」
「何が起きても?」
「何が起きても」
「わたくしが無茶をしても?」
「そこだけは全力で止めます」
「最後だけ現実的ですわね」
「あなたの場合、そこは非常に重要ですから」
思わず笑ってしまう。
すると、ヴィンセントが右手を差し出した。
「では、約束しましょう」
わたしはその手を見る。
大きくて、温かそうな手だった。
何度もわたしを支えてくれた手。
書類を取り上げた手。
紅茶を渡してくれた手。
そして今、未来を一緒に歩くために差し出されている手。わたしは少しだけ迷ってから、その手を取った。
「……約束ですわ」
指先が触れた瞬間、胸の奥が静かに満たされていく。
未来は分からない。
きっとこれからも、何度も予想外の出来事が起こる。ゲームの知識が役に立たない瞬間だって、きっと来る。
それでも、以前ほど怖くはなかった。
未来を知っていることが、自分を守ってくれるわけではない。
未来を知らなくても、隣に誰かがいてくれる。
その事実のほうが、ずっと心強いのだと分かったから。
「ところで、エヴァンジェリン嬢」
「なんでしょう?」
「今日の予定ですが、午前中の仕事が終わったら――」
「散歩でしょう?」
「よく分かりましたね」
「昨日、そう言っていましたもの」
「では、二時間ほど」
「……一時間ですわ」
「一時間半」
「一時間」
「一時間十五分」
「なぜ刻むのです?」
「あなたといる時間を少しでも長くしたいので」
「……本当に、あなたはそういうところだけ妙に素直ですわね」
わたしが呆れて笑うと、ヴィンセントも笑った。
朝の庭に、二人分の笑い声が響く。
きっと、こんな未来もゲームにはなかった。
誰かが書いた台本にも、攻略対象の好感度表にも載っていない。
だからこそ、わたしは思う。この先、何が起きても構わない。
知らない未来だからこそ、自分で選べる。
そしてその隣には、きっとこの人がいる。
未来を知っていることよりも――。
未来を知らないまま、それでも一緒に歩いてくれる人がいることのほうが、ずっと大切なのだから。
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