第14話 私の婚約者はデート中でも国の異変を見逃さない!
ヴィンセントと約束した散歩の日は、朝からよく晴れていた。
ここ数日は雨もなく、王都へ続く街道も乾いている。窓を開ければ春らしい風が部屋へ入り込み、薄いカーテンを揺らしていった。
穏やかな一日になりそうだ。
そう思っていた。
――少なくとも、屋敷を出るまでは。
「エヴァンジェリン嬢」
「なんでしょう?」
「その服、似合っていますね」
玄関ホールで待っていたヴィンセントは、わたしの姿を見るなり、そんなことを言った。
あまりにも自然な声音だったので、危うく聞き流すところだった。
「……ありがとうございます」
「ただ、少し困りました」
「何がですの?」
「今日は街へ出る予定だったのですが、その服装では、あまりにも目立ちます」
「褒めているのか貶しているのか、どちらです?」
「もちろん褒めていますよ。私としては、できるだけ他の男性に見られたくない程度には」
「……朝から、何を言っているのです?」
思わず顔をしかめると、ヴィンセントは楽しそうに笑った。
「冗談です」
「今の間は絶対に冗談ではありませんでしたわ」
「半分くらいは本気です」
「なおさら困ります」
けれど、そんなやり取りをしながら馬車に乗り込んだとき、わたしの胸は不思議と軽かった。
以前なら、街へ出ることさえ予定表の中の一項目だっただろう。
今日は違う。
仕事ではない。
視察でもない。
ただ、ヴィンセントと街を歩くために外へ出る。
それだけのことなのに、朝から少し浮ついた気分になっている自分が可笑しかった。
王都の中央通りへ着くと、休日ということもあって多くの人々が行き交っていた。
露店からは焼き菓子の甘い香りが漂い、商店の前では店員が声を張り上げ、子供たちが両親の手を引きながら走っている。
平和な光景だった。
――けれど。
「……ヴィンセント」
「気づきましたか」
彼が視線だけを動かした。
通りの一角にあるパン屋の前。
いつもなら焼き立てのパンを求める客が並んでいるはずなのに、今日は店先に小さな紙が貼られていた。
『本日の小麦パンは、販売数を制限しております』
その下には、さらに小さく理由が書かれている。
ーー仕入れ価格高騰のため。
胸の奥に、“あの時”に見た報告書が蘇った。
小麦価格の異常な上昇。
複数の商会による大量購入。
帳簿上だけに存在する倉庫。
そして――白百合の印。
「まだ、終わっていなかったのですね」
思わず呟くと、ヴィンセントが頷いた。
「ええ。表面上は価格が落ち着き始めていますが、妙な動きが消えたわけではありません」
「それなら、なぜ今日は何も言わなかったのです?」
「せっかくの休日ですから」
「……」
「仕事の話ばかりしていると、あなたがまた『わたくしの人生は仕事だけではありません』と言い始めるでしょう?」
「よく分かっていますわね」
「毎日見ていますから」
彼はそう言って笑った。
「ですが、あなたが気になっているのなら、少しだけ話しましょう。今のところ、王都の食料そのものが不足しているわけではありません。ただ、一部の商会が市場に出回る前の小麦を大量に押さえている。その目的が分からないんです」
「買い占めた小麦を、どこへ?」
「そこが問題です」
ヴィンセントは周囲を見渡した。
「帳簿上の倉庫には存在している。しかし実際に確認すると、保管されている量と記録が一致しない。つまり、誰かが別の場所へ移している可能性が高い」
「王都の外?」
「おそらく」
「隣国へ?」
「まだ断定できません。ただ、先日の外交報告と合わせて考えると、その可能性は捨てられませんね」
その言葉を聞いた瞬間、背筋に小さな緊張が走った。
けれど、ヴィンセントはすぐに話題を切り替えた。
「それより」
「それより?」
「せっかく外へ出たのですから、あなたにはこちらを見ていただきたい」
彼が指差した先には、以前わたしが気に入った菓子店があった。
「……まさか」
「覚えていますよ。前回、あなたが三つ買おうとして、結局二つにした店です」
「そんなことまで覚えているのですか?」
「あなたのことなら、大抵覚えています」
「……」
こういうところだ。
事件の情報を整理し、商会の動きを把握し、外交情勢まで考えているくせに、わたしが何個お菓子を買おうとしたかまで覚えている。
「本当に、あなたは反則ですわね」
「褒め言葉として受け取ります」
店に入り、焼き立ての菓子を二人で選ぶ。
わたしが悩んでいると、ヴィンセントは何も言わず、わたしが手を伸ばしかけたものを先に取った。
「こちらにしましょう」
「なぜです?」
「前回、こちらを選んでいたでしょう」
「……覚えていたのですね」
「ええ」
その瞬間、胸の奥が妙に温かくなった。
世界の情勢や国の未来だけではなく、わたし自身の小さな好みまで覚えていてくれる。
それが、何より嬉しかった。
店を出ると、ヴィンセントが買った菓子をわたしへ差し出した。
「どうぞ」
「これは?」
「あなたの分です」
「わたくしが選んだものですから、当然自分で払いますわ」
「今日は私の奢りです」
「毎回では困ります」
「では、次回はあなたにお願いします」
「……次回があることは決定事項なのですね」
「当然でしょう?」
彼は、まるで疑う余地もないことのように言った。
「今日が楽しかったなら、また行けばいい。明日が楽しかったなら、明日も続ければいい。未来のことは、そうやって一日ずつ決めていけばいいんですよ」
その言葉が、静かに胸へ染み込んだ。
未来を知っているからではない。
未来を知らないからこそ。
今日という一日を大切にする。
それが、今のわたしには少しずつ分かってきた。
帰り道、馬車の中でわたしは窓の外を眺めた。
平和な街並み。
笑い声。
焼き立てのパンの匂い。
その一方で、誰かが食料を買い占め、誰かが白百合の印を残している。
この平穏の裏側で、何かが動いている。けれど、今はまだ、それを恐れる必要はない。
隣にはヴィンセントがいる。
彼はわたしの視線に気づくと、何も言わずに手袋越しにわたしの手を包んだ。
「大丈夫です」
「……まだ何も言っていませんわ」
「顔に出ていましたから」
悔しい。
でも、嬉しい。
「……では、信じますわ」
そう答えると、彼は満足そうに微笑んだ。
その手の温もりが、馬車の揺れよりも確かに伝わってきた。
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