第47話 婚約者様の気遣いは心臓に悪すぎる......!
白百合にまつわる一連の事件が収束してから、十日ほどが過ぎた。
王都はようやく以前の活気を取り戻しつつあった。
市場では朝から商人たちの声が響き、焼きたてのパンを売る店には長い列ができている。以前は買い占めを警戒していた市民たちも、今では必要な分だけを買い、笑いながら家路につくようになった。
何も起こらない。
それは、とても素晴らしいことだ。
――本来なら。
「……ヴィンセント」
「何でしょう?」
「今日は休日、ですよね?」
「ええ。昨日、私がそう決めました」
王立図書館の窓際。
私は積み上げられた本の向こうから、恨めしそうに彼を見つめた。
「どうして私たちは図書館にいるのでしょう」
「あなたが行きたいと言ったからです」
「……そうでした」
「そして私は、あなたの希望を叶えることを何より大切にしています」
「そこだけ聞くと、とても素敵な婚約者なのですけれど」
「そこだけではなく、全体的に素敵だと思っていただいて構いませんよ」
「自分で言うのですね」
「あなたが言ってくれないので」
さらりと言い返され、私は黙り込んだ。
こういうところがずるい。
ヴィンセントは、私を甘やかすときも決して押しつけがましくない。
私が読みたい本を覚えている。
好きな紅茶の種類も覚えている。
甘いものを食べ過ぎると午後に眠くなることまで知っている。
そのくせ、自分のことになると驚くほど無頓着だ。
「それにしても、随分と本を借りましたね」
「十冊です」
「……休日ですよ?」
「休日だからです」
「仕事の日より読んでいませんか?」
「仕事の日に本を読む時間がないので」
「それはつまり、休日に仕事をしているのと同じでは?」
「読書は仕事ではありません」
「あなたの場合、古い記録を読み始めると事件を見つけるので、私には仕事にしか見えません」
私は思わず笑った。
「では今日は事件を見つけないようにします」
「その言葉を聞くのは、今回で二度目です」
「信用がないですね」
「ええ。あなたについては、かなり慎重になっています」
そう言ってヴィンセントは、私の前へ紅茶を置いた。
淡い花の香りが広がる。
私の好きな白茶だ。
「……これ」
「気づきましたか?」
「どうして図書館にまで持ってきたのです?」
「あなたが本に夢中になると、飲み物の存在を忘れるからです」
「そんなことはありません」
「では、さっきから一度も飲んでいないのは?」
「……」
「私の勝ちですね」
悔しい。
けれど、彼のこういう細かな気遣いは嫌いではなかった。むしろ、以前よりずっと好きになっている自分に気づいてしまう。
私は誤魔化すように本へ視線を戻した。
古代王朝の街道史。
以前から読みたかった一冊だ。
ページをめくっていく。
すると、ふと違和感があった。
「……あれ?」
「どうしました?」
「この本、前に読んだときと違います」
「内容が?」
「いいえ。ここです」
私はページの端を指差した。
小さな蔵書印。
以前はなかった。
「王立図書館の本には、すべて管理番号があります。でも、この本の番号だけ形式が違うのです」
ヴィンセントが本を受け取る。
しばらく眺めたあと、眉を寄せた。
「確かに妙ですね」
「しかも、このページだけ紙質が違います」
慎重にめくる。
そこには、古い地図の写しが挟まれていた。
王都から北へ伸びる街道。
その途中に、小さな印が三つ。
「……旧王室倉庫」
ヴィンセントが呟く。
「白百合事件で使われた倉庫とは別の場所です」
「ええ」
私は地図を見つめた。
白百合。
王室倉庫。
古い街道。
また同じ言葉が繋がってしまう。
「偶然でしょうか」
「その可能性もあります」
ヴィンセントはすぐには断定しなかった。
それが彼らしかった。
何かを見つけるたびに犯人を決めつけるのではなく、証拠が揃うまで待つ。
「ですが」
彼は地図の裏を確認した。
「この紙、最近触られています」
「分かるのですか?」
「紙の端に、ごく薄い油染みがあります。古い紙にはつきにくい種類です」
「……本当に何でも見つけますね」
「あなたを見ている時間が長いので、細かい変化には慣れています」
「それを事件の調査にまで使うのはどうなのでしょう」
「便利でしょう?」
「便利ですけれど……少し恥ずかしいです」
ヴィンセントが笑った。
「私は、あなたの変化なら何でも知っていたいと思っていますよ」
その言葉に、胸が小さく跳ねた。
私は何も言えず、再び本へ視線を落とす。
しかし、そのときだった。
図書館の奥から司書が慌てた様子で走ってきた。
「エヴァンジェリン様、申し訳ありません。少しお伺いしたいことが――」
「どうしました?」
「こちらの本なのですが」
司書が一冊の本を抱えている。
「今朝、返却されたはずなのに、貸出記録が残っていないのです」
私は本を受け取った。
表紙を見る。
王都周辺の旧街道に関する専門書。
ページを開く。
すると、昨日の地図と同じ印が見つかった。
三つの小さな点。
そして、その横には――白百合の紋章。
ヴィンセントの表情から笑みが消えた。
「……休日は、終わったようですね」
「私も、そう思います」
「残念です」
「何がです?」
「今日はあなたと二人で、ゆっくり過ごすつもりだったので」
「……明日では駄目ですか?」
「事件が明日まで待ってくれるなら」
「それは無理でしょうね」
「でしょうね」
二人で苦笑する。
けれど、ヴィンセントはすぐに私の手を取った。
「なら、仕方ありません」
「何がです?」
「事件を片づけたら、改めて休日を取り直しましょう」
「また図書館では?」
「いえ」
彼は少し考え、それから微笑んだ。
「今度は本を持って、誰にも邪魔されない場所へ行きましょう」
「……それなら、楽しみです」
「約束ですよ」
私は頷いた。
未来がどうなるかなんて、今の私には分からない。
けれど――この人と交わした小さな約束だけは、きっと守りたい。
そう思った。
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